公募ガイド

  • お問い合わせ 03-5415-2170
  • お問い合わせ 03-5415-2170
  1. HOME > 
  2. 編集部ブログ > 
  3. 小説抄

公募ブログ

小説抄 其の15「司馬遼太郎『韃靼疾風録』」

カテゴリ:小説抄

51x+86aYSzL._SX347_BO1,204,203,200_

 

ブログの順番がよくわからなくなっていますが、それはともかく、私のブログもこれが最後になると思います。読んでいただいた方には感謝致します。

最後を飾るのは、10代の頃から大ファンの司馬遼太郎さんです。

 

さて、韃靼と言ったら韃靼蕎麦を思い出しますが、「だったん」とは「タタール」。中国北部にいた遊牧民ですね。余談ながら(司馬遼太郎風)、タタールは「タルタルソース」の語源だそうです。ソースを作ったのは西洋人だと思いますが。
タタール人はチンギス・ハンのモンゴルに征服されますが、そのモンゴルが滅亡したあと、女真族が統一されます。統一したのは清王朝の初代皇帝ヌルハチです。再び余談ながら、この女真族の民族衣装が現在のチャイニーズドレス。清の時代に中国全土に広まったそうです。

 

さて、『韃靼疾風録』。これは司馬遼太郎最後の小説と言われています。これ以降はエッセイや対談集は出していますが、物語は書いていません。王貞治は「王貞治のバッティングができなくなった」と言って引退しますが、司馬遼太郎も「司馬遼太郎の小説が書けなくなった」と思ったのかもしれませんね。

 

『韃靼疾風録』の舞台は江戸時代の初め。中国は漢民族の明の時代ですが、辺境の夷敵に過ぎなかった清王朝三代皇帝ドルゴンが万里の長城を破って明に流れ込み、そのまま中国を統一します。これがクライマックスとなりますが、この小説では司馬遼太郎は皇帝を主人公にはしませんでした。

 

物語は、日本の平戸にアビアという女性が流れ着くところから始まります。アビアは女真族の公主です。鎖国期の日本にはいられません。それで下級武士の庄助に白羽の矢が立ち、藩から満州まで送り届けろと命令されます。冒頭でそう言われたら、当然、こう思います。「庄助がアビアを送り届けるのがこの小説の物語上の目的なんだろうな」と。ところが、文庫で上下巻ある途中で、庄助は無事、アビアを満州まで送り届けてしまうのです。任務完了です。

 

清王朝が明を倒すクライマックスは圧巻ですが、一方で、「主人公の庄助とアビアはどこに行ってしまったんだ」という思いがありました。『国盗り物語』は斎藤道三、織田信長、明智光秀と主人公が変わりますが、『韃靼疾風録』は途中で主人公不在になるんです。物語としては最高に面白いのですが、「主人公わい」と思ってしまうのですね。

 

で、『韃靼疾風録』の終わりにこうあるんです。

 

それはべつとして、庄助やアビアはいつ死んだのであろう。
そのことを詮索する根気は、筆者においてもはや尽きた。
(司馬遼太郎『韃靼疾風録』)

 

「ちょっと先生!」と思ってしまいました。ノンフィクションではないのだから、先生が心折れてしまっては、我々読者はどうしたらいいの?という感じです。
〈最後に庄助とアビアを登場させなければ物語としてアンバランス〉ということぐらいわかっていたはずですが、精も根も尽きてしまったようですね。

 

有終の美を飾るとは言いますが、なかなかそうはいきません。まだ力があるうちは「まだいける」と思ってしまいます。この引き際が難しい。司馬遼太郎さんだって『韃靼疾風録』がうまくいっていれば、もう一作、中国ものを書いていたかもしれません。結局は「もう限界」と思わせてくれるきっかけが必要になります。つまり、最後の最後は敗北するわけですね。千代の富士も矢吹丈もロッキーもそうでした。

 

でも、それが格好いい。矢吹丈ではないですが、最後は「ほんの瞬間にせよ、まぶしいほどまっ赤に燃えあがるんだ。そしてあとにはまっ白な灰だけが残る。燃えかすなんか残りやしない。まっ白な灰だけだ」と言ってみたいものです。
(黒田)

小説抄 其の14「山際淳司『江夏の21球』」

カテゴリ:小説抄

31voAMdfV8L._SX310_BO1,204,203,200_

 
今年のプロ野球はヤクルトとオリックスが連覇という異例の事態になりました。ドラフト制度導入以降、戦力にかたよりはなくなりましたので、なかなか連覇って難しいですけどね。選手もよくやりましたが、なんといっても監督かなあ。いいね、いいリーダーがいるチームは。

 

この時期、どうしても気になるのは引退試合ですね。王も長嶋も引き際がよかった。王なんか引退の年でもホームラン30本打ってますからね。でも、打った瞬間、「ホームランだ」と思った一打がライトフライのときがありました。事前に「巨人は負けた」と聞いていましたが、深夜のスポーツニュースを見たとき、これがホームランなら逆転という一打だったので、「あれ、9回に一度は逆転したのかなあ」と思ったほどでした。それほどの当たりだったのに、なんとライトフライ。「王も年なのかなあ」と思ったものでした。

 

長嶋茂雄もまだやれるっちゃやれました。打率も3割近かったですからね。でも、もう1年やって打率が悪いと、生涯平均打率が3割を切ってしまうという事情もあったでしょうし、9連覇した川上監督が勇退することも決まっていました。潮時だったかもしれません。ちなみに「潮時」とは「いいタイミング」という意味です。
で、引退試合での「我が巨人軍は永久に不滅です」のセリフです。
「永久」はモノに対して使う言葉で、正しくは「永遠に不滅」ですが、これも長嶋流ということで。

 

引退試合と言えば、2001年9月30日の斎藤雅樹投手ですね。
この年、斎藤はめちゃめちゃ酷使されたんですね。優勝がかかった天王山ではなんと五連投ですよ。もう長嶋監督のために殉死したようなものです。まあ、本望でしょうが。
私はアンチ巨人なのですが、アンチですら、引退試合前の投球練習を見て、「あんなへろへろの球じゃ、1イニングもたんだろ。引退試合でめった打ちくらうなんて可哀想」と見ていました。

 

最初のバッターは横浜ベイスターズの鈴木尚典。首位打者にもなったことがある名選手ですね。まあ、軽くセンター前ヒットだろうと思ったら、初球空振り。観客はどよめく。斎藤、意外といい球? 2球目も空振り。球場はやんやの大喝采。しかし、ここで疑念がわく。
「あれ、わざと空振りしている?」

そう思って見てはっきりわかりました。わざと空振りしているのです。あっぱれベイスターズ、粋なことをする。これは相撲で言う人情相撲、というか去りゆく先輩への敬意なのだとさとり、ちょっと感動しました。で、尚典、見事な空振り三振。

 

ところが、次打者を見て、「これはやばい!」と。そこにいたのは助っ人外国人選手ドスターでした。腰掛けで来て稼いで帰ろうという選手は記録に執着する。消化試合だろうと関係ない。日本に対する愛着もない。クールにドライに打つだろうな。悪いな、斎藤、引退試合なのにと思いました。
案の定、ドスターは当たれば場外かというフルスイング。ところがこれが当たらない。それもそのはず、バットとボールが20センチも離れている。かくてドスターは豪快に三振しました。敬意は国境をも越えるんですね。やるじゃないか、アメリカ人って感じでした。

 

後年、ベイスターズの大魔神、佐々木主浩投手の引退試合では、逆に巨人の清原が代打で登場、見送ればボールという落ちないフォークに三振したのでした。どう見ても故意ですが、試合後、「最後は世界一のフォークに空振りでした」と涙ながらに言われては、「わざとだよね」なんて無粋なことは言えません。小粋な男たちははなむけの心を忘れません。選手間には思いがあるのですね。

 

あ、山際さんのことを語る前に紙幅が尽きた。山際淳司さんは30年ほど前に公募ガイドに出てもらったことがあり……もう、いいか、この話。ブログも引き際が大事なんですよ。
(黒田)

小説抄 其の13「吉本隆明『源実朝』」

カテゴリ:小説抄

51RMgDLxIAL._SX350_BO1,204,203,200_

 

 

15歳のとき、太宰治の「右大臣実朝」を読み、源実朝に強烈なシンパシーを感じた。それで『金塊和歌集』を読んだりしたあと、辿りついたのが吉本隆明の『源実朝』だった。
後年、吉本ばななが『キッチン』でデビューし、「吉本隆明の娘だってよ」と噂になったが、今は逆ですね。「吉本隆明って誰? あ、吉本ばななのお父さんなのね」って。

 

さて、実朝の和歌。鎌倉時代は古今和歌集の時代。つまり、万葉集的な直截な和歌はダサいとされ、掛詞などのテクニックを駆使するようになったとき。にもかかわらず、実朝の和歌は万葉集的なわかりやすい和歌だ。家庭教師はあの藤原定家。なのにあの素朴さ。人柄なのか。

 

大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも

 

「割れて、砕けて、裂けて、散るかも」の畳語はものすごく写実的。掛詞といった小賢しいテクは一切なし。写生文を提唱した正岡子規も絶賛するわけだ。

 

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ

 

これも写実的。見たまま、ありのままに詠んでいる。確か、箱根の十国峠にこの碑があった気がするが、この前、芦ノ湖から三島まで歩いたとき、なかったんだよなあ、勘違いだったかなあ。

 

世の中は常にもがもな渚こぐ海人の小舟の綱手かなしも

 

百人一首にもなった和歌。漁師が海から帰ってきたのを見て、世の中はずっとこうだったらいいのになあと詠んでいる。しみじみするね。

 

山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

 

「君」というのは恋人か、妻の坊門信子か。残念、「君」とは後鳥羽上皇のこと。後鳥羽上皇は和歌集の編纂もする出版プロデューサー。そういう点でも尊敬していたんでしょう。のちに承久の乱を起こされるけど。

 

時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ

 

台風が来たのでしょうか。わかりやすい和歌。実朝は政治はさせてもらえませんでしたが、民のことは思っていたんでしょう。一応、鎌倉殿なので。

 

もの言わぬ四方の獣すらだにも憐れなるかな親の子を思う

 

親の幸薄い実朝が歌うと切ない。獣ですら親は子を思う。いわんや人をやと言いたいところだが、鎌倉時代は親族で殺し合いばかり。実朝は甥の公暁に殺され、父親の頼朝は弟の範頼、義経を殺し、頼朝の兄、義平は叔父の義賢を殺し、義賢の子、木曽義仲は範頼・義経と戦って死に、義仲の子、義高は頼朝の刺客に殺され……。まあ、法治国家じゃないからやりたい放題。

 

身につのる罪やいかなる罪ならん今日ふる雪とともに消ななむ

 

なんで将軍になってしまったのか。凡人が権力を得ることが罪なのか。あまり有名ではない和歌だが、これが一番心に沁みる。

 

出でいなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな

 

鶴岡八幡宮で公暁に暗殺された日に詠んだ最後の和歌の一つ。菅原道真の飛梅を彷彿とさせる。ぬしなき宿となると予感していたのか。
15歳のとき、実朝のような人生になる予感がありましたが、全然違いました。よかったのか、悪かったのか。今もってわからず。
(黒田)

 

 

小説抄 其の12「戸川幸夫『高安犬物語』」

カテゴリ:小説抄

41+CdIbLEQL._SX441_BO1,204,203,200_

 

戸川幸夫は毎日新聞の記者であり作家志望ではなかったが、友人の作家に誘われ、大衆文学の大御所、長谷川伸が主催する新鷹会という小説の勉強会に参加する。3ヶ月後、君も何か書いてこいと言われ、旧制山形高校(現山形大学)時代の思い出を書いた『高安犬物語』を提出した。その処女作がなんとその年の直木賞を受賞してしまうのである。すると、師匠の長谷川伸は「こうなった以上は新聞記者はやめて……」と言い、戸川さんも専業作家になる。なんていう劇的な人生か。

 

当時(昭和29年)、新人文学賞は少なく、新人の多くは長谷川伸のような重鎮の推薦でデビューしていたのだが、『高安犬物語』もそのような形で「大衆文芸」に掲載され、そのまま直木賞を受賞した。「大衆文芸」は新鷹会の会誌といっていい面もあり、ここでは村上元三など新鷹会の同人が多く活躍、のちには池波正太郎や平岩弓枝も輩出する。
ちなみに「大衆文芸」は白井喬二・江戸川乱歩が創刊させた雑誌だったが、経営難のため休刊していたのを長谷川伸らが復活させた。長谷川伸が関わったのは第三次「大衆文芸」になる。

 

さて、『高安犬物語』。高安犬とは、山形県の高安地方に生息し、昭和初期に絶滅してしまったマタギ犬であるが、戸川さんはこの高安犬より先に日本狼に興味を持ち、「もう一匹も残ってはいないのだろうか」と日曜ごとに自転車を駆って探しまわったという。しかし、山犬(日本狼)が撃たれたとか、米沢の古老が狼を飼っていたといった噂を聞きつけては調査してみたが、いずれも野生化した日本犬に過ぎず、ついに発見には至らなかった。

 

それもそのはず、日本狼は明治期に絶滅してしまっていた。亡びゆく種族に対して愛惜を持っていた戸川さんとしては無念だったと思うが、しかし、このときの情熱と悔しさは、昭和44年のイリオモテヤマネコ発見として実を結ぶ。野生ネコの新種発見は70年ぶりのことであり、当時は20世紀最大の生物学的発見と言われた。戸川氏55歳のときの偉業である。

 

さて、いきなり作家になってしまった戸川さんにとっては、それからが作家修業の時代となるのだが、そんなある日、同門の新田次郎がこう言った。「(勉強会は)まだまだ生ぬるい。もっと罵りあい、つかみかかるほどの厳しい批判をしあおうじゃないか」と。戸川さんはそれに賛同し、池波正太郎らを誘って「炎の会」という組織を作り、毎月一度、那須山中の宿に泊り込んで研鑽会をしたそうだ。その甲斐あって新田次郎は山岳小説の、池波正太郎は時代小説の第一人者となり、戸川幸夫は動物文学の草分けとなる。まさに大衆文学の梁山泊だった。
(黒田)

小説抄 其の11「新田次郎『聖職の碑』」

カテゴリ:小説抄

聖職の碑

 

戦時中、新田次郎は中央気象台(現気象庁)の満州国観象台に勤務していたが、終戦直前に不可侵条約を破って侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、中国共産党軍にて一年間、抑留生活を送る。妻の藤原ていはソ連侵攻前に二人の息子を連れ、38度線を歩いて越えて帰国。昭和24年、ていが書いた満州からの引き上げ記録『流れる星は生きている』はベストセラーになる。

 

新田次郎氏は複雑だった。妻の原稿料で家計は潤ったが、自身も作家志望だったから羨望もあったと思う。しかし、これが転機となる。2年後の昭和26年、「サンデー毎日創刊30年記念100万円懸賞小説」に「強力伝」で応募し、現代小説1席を受賞する。なお、同2席に南条範夫、歴史小説2席に永井路子がいた。

 

『聖職の碑』は大正2年、長野県の中箕輪高等小学校(今の中学校)の生徒が学校行事として木曽駒ケ岳に登り、遭難して11名が死亡した事故を基にしている。読んでない人のために内容には触れないが、「人は雨に打たれただけで死ぬんだ」とか、当時は台風の基準値が高く、予報では熱帯低気圧だったんだといった事実に「へえ」と思ったこと、それから自らも長野出身である作者が「長野県民は議論好き」と書いていたことをよく覚えている。

 

新田次郎氏とは会ったことはないが、次男の藤原正彦さんとは公募ガイドの取材で二度会った。新田次郎からすると妻のていさんは先輩作家で、「何、この下手な文章」みたいに酷評ばかりで、しまいには夫婦ゲンカになってしまう。それで高校生だった藤原正彦さんが原稿を読んで感想を言う担当になったらしい。文筆家になるには最高の環境だ。

 

ちなみに、数学者だった藤原さんに執筆を勧めたのは新田次郎氏だ。藤原さんは研究のために渡ったアメリカから家族に手紙を送っていたそうだが、新田次郎氏によると、それが全部面白かったと。「おまえ、才能があるかもしれないから、何か書いてみろ」と言い、それで藤原正彦さんが書いたのが、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞する『若き数学者のアメリカ』だ。

 

新田次郎の小説は十代の頃によく読んだのだが、愛読者でもあるので、藤原正彦さんの取材のときは当然、新田次郎氏の話になる。藤原正彦さんによると、新田次郎氏は、どんなに誘っても「連れ去られるから」と言って終生共産圏には行かず、「今はそんなことない」という説得にも頑として応じなかったそうだ。抑留生活を陳腐な言葉で言うのは申し訳ないが、そこはやはり地獄だったようだ。
(黒田)

小説抄 其の10「村上春樹『羊をめぐる冒険』」

カテゴリ:小説抄

41Ux6j1gKTL._SY291_BO1,204,203,200_QL40_ML2_

 

 

「長嶋は燃えた」はいいが、「長嶋は燃やした」となると「何を」という疑問が残る。

文法的には「燃やす」は他動詞で目的語を伴うからだが、しかし、文法など知らなくても私たちは「長嶋は燃やした」だけではなんか足りないと感覚的にわかる。
一方、日本語を学びたての外国人などにはこれがわかりにくい。この事情は日本人が語学学習をするようなときも同じ。その際は勘ではなく文法という理屈でこれを補う。

 

40年も昔のことになるが、ある日、友人が興奮して「この小説はいい」と言ってきた。それは当時の学生なら論文を書くときなどに誰もが「〇〇をめぐる〇〇」というタイトルをつけたぐらい売れている作品だった。読んでみると確かにおもしろかった。影響されて、読むたびにビールが飲みたくなったり、オムレツが食べたくなったりして、ちょっと太ってしまったくらいだった。それが『羊をめぐる冒険』だった。

 

ただ、終盤は物語の出口を探しあぐねているようでキレが悪いような気もした。初めて読んだときはそれも魅力ぐらいに思っていたが、このあとに氏の短編集を読んではっきりわかった。短編はあれほど切れ味鋭いのに、長いものになると今ひとつ。ということは、この人は志賀直哉と同じタイプなんじゃなかろうかと。

 

後年、村上氏がプロットを作らないで書くと聞き、なるほどそのせいかと思った。即興で曲を作っていくようなことをすれば展開に迷うこともあるが、その分、その曲にふさわしいメロディーができる。本当は右に行くべきだが、左に行くのがセオリーだから強引に左に行くというやり方をすれば、筋書きのない自然なドラマは作れない。

 

だから方法論としては正しいが、この頃はまだ長編に慣れていなかったのかもしれない。何しろ、神宮球場の外野席でヤクルト戦を観戦しているときに、「そうだ、作家になろう」と思い、翌年にデビュー。そして、『羊をめぐる冒険』はまだ三作目、初の長編だったのだから。

 

 

今、村上春樹は長編が得意ではないと言う人は全くいないと思うが、デビュー当時はそうではなかった。このことは実は『ノルウェイの森』を読んだときにも感じたが、その後、氏は語学学習をするように理論的に物語の文法を学んだそうで、今の作品に初期の作品のような逡巡はない。才能ある人も最初から完成しているのではなく、成長していくんだなと今は思える。
(黒田)

 

 

 

 

小説抄 其の9「志賀直哉『和解』」

カテゴリ:小説抄

41Tb3C1qHUL._SY291_BO1,204,203,200_QL40_ML2_

 

 

小説に興味を持ったとき、近代文学の創成期から順に読破しようと思った。まだ十代だった。

しかし、明治の文学は漢字が多くてとっつきにくい。特に擬古典主義の時代は「これ、古文かいな」という感じで全く読めない。

親友のH君は芹沢光治良の『人間の運命』(昭和の文学だけど)などというものを読んでいて、「こういう硬派の文学は大人になったら読めないから、今のうちに勢いで読んでおく」などと言っていたが、私にはできない相談だった。

 

坪内逍遥、幸田露伴……めまいがする。樋口一葉、国木田独歩……溜め息しか出ない。島崎藤村『夜明け前』……な、長い。明治はだめだ、大正で許してもらおうと誰に言い訳しているのかわからない言葉を吐きつつ志賀直哉に手をかけた。『暗夜航路』……こんなに厚くて上下巻なんて勘弁してくれ、受験勉強もしなきゃならんのだと思ったとき、『和解』が目に入った。薄い。これならすぐに読み終わりそう。しかも名作らしい。

確かに読了するのに三日とかからなかった。しかし、読後の感想は、「お偉い方々が絶賛しているんだから名作なんだろうなあ、たぶん」といったものでしかなかった。

 

当時は親子関係に問題を抱えていたから、子どもが生まれたあと、父親と和解するというストーリーに興味を持ったが、なんとなく薄っぺらい印象を持った。太宰治が志賀直哉にケンカを売った文章を読んでいたので、裕福な家庭に生まれた苦労知らずだとあなどっていた節もあった。

ちなみに、太宰のその文章がこれ。

 

 普通の小説というものが、将棋だとするならば、あいつの書くものなどは、詰将棋である。王手、王手で、そうして詰むにきまっている将棋である。旦那芸の典型である。勝つか負けるかのおののきなどは、微塵みじんもない。そうして、そののっぺら棒がご自慢らしいのだからおそれ入る。

(中略)

 この者は人間の弱さを軽蔑している。自分に金のあるのを誇っている。「小僧の神様」という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。

(太宰治「如是我聞」)

 

めちゃめちゃ怒っている。いちゃもんつけられて小説の神様もいい面の皮だが、ケンカ文まで悪魔的に名文というのが太宰のすごいところ!

 

閑話休題。それから三年後、私自身が親に勘当され、家を出るという状況になる。どういう巡り合わせか、今考えると、『和解』そのものだ。その後、父親とは和解し、結婚もし、子どもが生まれる。

亜子のあまりのか弱さに風が吹いても心配になり、あれこれと余計な心配ばかりしていたとき、ふと親の存在を煩わしいと思っていた昔を思い出し、親はこんなふうにオレを見ていたのかと初めて気づく。と同時に、はて? この心境、どこかで聞いたことがあるなと思ったら、それは『和解』そのものだった。

よく考えると、裕福な家庭に生まれた苦労知らずというところも私とそっくり。

『和解』は私の人生の予告編だったのかも。その後の人生はある意味、『暗夜行路』だったけど。
(黒田)

小説抄 其の8「芥川龍之介『魔術』」

カテゴリ:小説抄

51uYQw6jIVL._SX351_BO1,204,203,200_

 

純文学/エンターテインメント小説という分類があるが、直木賞作家の白石一文さんは、「小説が100冊あったとして、これを純文学かエンタメ小説かに分けろと言われたら、全部分けられる」と言っていた。

また、芥川賞作家の平野啓一郎さんは、「純文学とエンタメ小説に分けられているのは日本だけと言う人がいるが、ミステリーがノーベル文学賞を受賞することがないように厳然と区別がある」と言っている。

 

日本の近代文学は、西洋から輸入したフランス文学、ロシア文学の模倣から始まった。模倣ではあるが一応は文学。一方、大衆の読み物はというと、落語や講談を速記して印刷した書き講談がそのルーツの一つ。両者は同じ読み物とは思えないぐらいかけ離れた存在で、全くの別物だった。

 

しかし、関東大震災を機に大衆小説が人気となると、人気に乗じて粗製乱造された大衆小説と一緒にしないでくれとばかり、「純」が強調されるようになる。この時点での純文学は反大衆小説という共通項はあるものの、個々の作風は十人十色だった。

 

戦後、純文学はどんどん先細っていく。昭和36年に伊藤整は「『純』文学は存在し得るか」という評論を書いているが、ということは絶滅危惧種だったのだろう。そこで出版社は、食い詰めた純文学作家にエンタメ小説を書かせる。いわゆる中間小説で、これが100万部という市場にまで発展する。そうなると、もはや純文学と大衆小説は対立概念ではなくなるのだが、ここで問題になるのは、そもそも純文学と大衆小説は対立概念だったんだっけということ。

 

(注)以下、ネタバレを含みます。
純文学の賞である芥川賞にその名を残す芥川龍之介に『魔術』という短編がある。

ある夜、主人公がインド人を訪ね、魔術を教えてほしいと乞う。インド人は「欲のある人間にはできません。あなたはそれを捨てることができますか」と問う。主人公ができると言うと、習うには時間がかかるので今日はここに泊まりなさいと言い、「御婆サン、御婆サン、御客様ガ御泊リニナルカラ、寝床ノ支度ヲシテ置イテオクレ」と言う。

 

主人公は魔術を習い、家に帰ると早速、友人に見せて自慢などするが、あるとき、トランプで賭けをし、大勝ちする。負けたある男は気が収まらず、全財産を賭けるから、君も有り金を賭けろと狂ったように挑んでくる。主人公は受けて立つが、勝負が決するカードを引くその刹那、欲が出て、魔術を使ってしまう。相手のカードは「九」、主人公は「王様(キング)」。主人公の勝ちだ。すると、そのキングの絵がひょいとカードから抜け出て、「御婆サン、御婆サン、御客様ハ御帰リニナルソウダカラ、寝床ノ支度ハシナクテモ好イヨ」。主人公はまだ魔術を習う前だったのだ。

 

このどんでん返しは見事というしかなく、伏線の張り方もミスリードのさせ方も、のちの世のミステリーやショート・ショートの教科書にしたいぐらい。純文学作家がこんなエンタメの技巧を駆使していたなんて。こうなると、純文学/エンタメ小説の境目がわからなくなる。

 

よくよく考えれば、夏目漱石の『坊っちゃん』も、太宰治の『御伽草子』もエンタメそのもの。端から境界などなかったかなとも思ってしまう。ただ、そうは言っても明らかに純文学ではない、もっと言うと文学では絶対にない小説もある。だから、小説を二つに分けるのなら、純文学/エンタメ小説ではなく、文学/非文学だろうと思う。ちなみに、文学と言える賞は文学賞のタイトルを冠し、そうでない賞は小説賞というタイトルになっている。
(黒田)

小説抄 其の7「谷崎潤一郎『痴人の愛』」

カテゴリ:小説抄

images

 

 

男は初という男勝りの女性に求婚するが、初はこれを断り、代わりに妹の千代子を薦める。男は姉妹なら似たような性格だろうと嫁にもらうが、千代子は貞淑で従順な女性だった。普通なら手放しで喜ぶところだが、男の嗜好には合わず、飽き足らなくなってしまう。

 

そんな折、男は千代子の妹のせい子と出会う。せい子は初に似て、奔放で男を振り回すタイプだったため、男は猛烈に入れ込んでいく。
男とは谷崎潤一郎。せい子は『痴人の愛』に出てくるナオミのモデル。同作には主人公の譲治がナオミの足を好んで舐めるシーンが出てくるが、谷崎本人にそうした嗜好があったかどうかまでは知らない。でも、たぶそうなのでしょう。大谷崎、ドM!

 

とまれ、千代子の話。貞淑であることは離婚の理由にはならない。そこで谷崎は一計を案じ、千代子の境遇に同情している親友の佐藤春夫に「千代子をもらってくれないか」と持ちかける。佐藤としては「そんなバカな」だが、だんだんその気になる。千代子も同じ。

 

ところが谷崎はそうは言ったものの、恋をして綺麗になっていく千代を見て手放すのが惜しくなり、「この話はなし」と前言を翻す。怒った佐藤は谷崎と絶交し(小田原事件)、千代を想う詩を次々と発表する。言わば公開ラブレターだが、「秋刀魚の歌」はそんな中で生まれた。

 

さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。
(佐藤春夫「さんまの詩」)

 

それから9年後の昭和5年、谷崎潤一郎、佐藤春夫、千代子の三人は連名で、
「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り」
という声明文を発表する(細君譲渡事件)。
当時は妻を物のように扱うと非難されたが、「いらないからやるよ」ということではなく、激しい嫉妬をした末に「そんなに好きならくれてやる」という面もあったらしい。興味のある方は『蓼食う虫』を読むべし。

 

ちなみに千代はその後、佐藤と結婚、終生静かに暮らし、谷崎は二度の離婚を経て松子と再婚、次女の松子ほか四姉妹をモデルに『細雪』を書く。
(黒田)

小説抄 其の6「井伏鱒二『山椒魚』」

カテゴリ:小説抄

41sQaxYepCL._SX346_BO1,204,203,200_

 

1995年に、公募ガイド創刊10周年を記念し、『榊原和夫の現代作家写真館』の連載を単行本化した。その際、雑誌でやった連載ページをただ転載するだけでは面白くないので、新たに寄稿を依頼した。芥川賞作家の八木義徳さんもその一人だった。

 

気がつくと原稿の締め切りが過ぎており、ご自宅に直接電話した。八木先生はちょうど全集のゲラ(校正刷り)を読んでいたらしく、「昔の作品に赤を入れだしたらきりがない。だから、ほどほどにしておく」とおっしゃっていた。このとき、八木先生、80代。若い頃に書いた作品は未熟に思えたのだろう。

 

昔に書いた原稿を読むと、「練られてない」「若書きだ」「つたない」と思ってしまう。しかし、文章は一行目から結末まですべてつながっているもので、おかしいからと言って直せば、そこだけ浮いてしまう。汚れた壁の一か所だけ掃除したら、逆に汚れが目立ってしまうようなものだ。やるなら、一から全部書き直すしかない。しかし、それをやっていると、別の作品になってしまいかねない。だから、八木先生は「ほどほどにして」おいたのだ。

 

やっと本題。これは八木先生と話したあとで思ったことだが、このときの八木さんの頭には井伏鱒二の一件があったのではないかと思った。
八木先生とのやりとりを遡ること10年前の1985年、井伏鱒二は『井伏鱒二自選全集』(新潮社)に「山椒魚」を収録した際、作品の最後の17行をばっさり削ってしまった。
削った部分は、以下の文章。

 

 ところが山椒魚よりも先に、岩のくぼみの相手は、不注意にも深い嘆息を漏らしてしまった。それは「ああああ」という最も小さな風の音であった。去年と同じく、しきりに杉苔の花粉の散る光景が彼の嘆息をそそのかしたのである。
 山椒魚がこれを聞き逃す道理はなかった。彼は上のほうを見上げ、かつ友情を瞳にこめて尋ねた。
「おまえは、さっき大きな息をしたろう?」
 相手は自分を鞭撻して答えた。
「それがどうした?」
「そんな返事をするな。もう、そこから降りてきてもよろしい。」
「空腹で動けない。」
「それでは、もうだめなようか?」
 相手は答えた。
「もうだめなようだ。」
 よほどしばらくしてから山椒魚は尋ねた。
「おまえは今、どういうことを考えているようなのだろうか?」
 相手はきわめて遠慮がちに答えた。
「今でも別におまえのことを怒ってはいないんだ。」
(井伏鱒二『山椒魚』)

 

『山椒魚』を最初に発表したのは、1929年。つまり、50年以上が経っている。連載小説を単行本にするときなどに大幅に加筆するということは珍しくはないが、既に世に出て久しい作品の、しかもラストの部分を削るというのは異例のことだ。
当然、賛否両論の議論が巻き起こった。だって、この17行を含めて『山椒魚』だと思っている人が大半なのだ。今更、「あれはなかったこと」にはできない。

 

このとき、井伏鱒二は90歳近いのだが、「『山椒魚』のラストは蛇足だ」と思ったのだろう。でも、このラストの部分を論じてものを書いたり、会話したりした人が無数にいる。芸術は「これで完成」ということはなく、推敲は一生続くものだと言えば美談にも思えるが、山椒魚だけに蛇足という足があってもいいのでは? なんて思わないでもない。

 

その後、2008年の第100版と、手元にあった1980年の第46版を比べてみたが、字詰めやふりがなを除けば内容はまったく同じだった。ということは、修正が生かされたのは自選全集のほうだけということになる。つまり、二つの「山椒魚」が存在することになるのだが、往年の名曲がニューバージョンとして売り出されたと思えばいいだろうか。
(黒田)

1 / 212

PAGE TOP

PAGE TOP