TK-プレス 其の33「日本人沈没」
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小松左京の『日本沈没』はとうの昔に読んでいると思ったが、よく考えると小学生の頃に映画で見ただけで、実は読んではいなかった。そして、今も読んでいないのだが、数年前にリメイクされて映画になったので劇場で見た。そのときの感想を言えば、なんだか古臭い結末だなあというものだった。この映画では、最後にSMAPの草なぎくん扮する小野寺が潜水艇に乗り込み、自らの命とひきかえに自爆することで日本を救う。原作も古いし、仕方ないのかなと思った。
しかし、1973年の映画版はこんな結末ではなかった気がして調べたら、別の映画といっていいほど違っていた。原作や1973年版でも小野寺の奮闘空しく日本は沈没してしまうが、そもそも小野寺は主人公ではなく、ストーリーの展開の中心は田所博士と山本首相、そして、彼らは日本人と日本の財産を海外に移そうとし、自身も最後に海外に脱出する。それもそのはず、もともと原作のテーマは日本人が母国を失い放浪の民族になったらどうなるかであり、第1部「日本沈没」は第2部「日本漂流」の舞台設定に過ぎなかったから、ここで主人公たちが死ぬはずはなかった。
それなら、2006年版の映画の結末を古臭いと感じたのはなぜか。それは主人公の死、または再起不能をもって物語を終える展開が、昭和30~40年代の劇画の展開と同じだからだろう。この頃の劇画はしばしば主人公を殺すことで話を終えた。死ななきゃ終われないと言ってもいい。それでも納得できたのは、死んでも守るべきものがあるという幻想が背景にあったからだろう。
しかし、今は欧米流の個人主義に侵されてしまって、自国に対する帰属意識は薄い。日本を大切には思っても、わが身と不可分に一体化しているという思いは薄い。犠牲になった人がいたら奇特な人だとは思うが、しかし、他人事のような気がするのはそのせいか。欧米人の多くは一神教だからいいが、形だけ欧米人の真似をして日本人の属性を捨ててしまえば、自分たちを束ねていたものを失ってばらばらになる。小松左京が危惧したのは、そういうことだったのかもしれない。(黒)
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