佳作「名刺 羽賀不二雄」

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2016.04.15

第13回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「名刺 羽賀不二雄」

「名刺を作ってみませんか」
初めて入った居酒屋のカウンターで隣の男が声をかけてきた。その日課長に叱責されて、むしゃくしゃしていた俺は素っ気なく答えた。
「名刺ならもう持ってるよ」
「私の作るのは少し変わったものなんですよ」
「プラスチック製とか木製とかいったものだろう 」
「そんなありふれたものではありません。私のは正確にいうと望みをかなえる名刺といった方がいいでしょうね」
「望みをかなえるって? どういう・・・」
そこで初めて声の主を見ると、高級そうなスーツを着た上品そうな人物だった。
「名刺に付いた肩書きどおりになるんです」
「肩書きどおり?」
俺は意味がわからなかった。
「たとえばですね、肩書きに○○会社社長と付ければその通りになるんですよ」
「そんな馬鹿な、じゃあ総理大臣って付ければ総理になれるってのか」
「もちろんすぐにっていうわけにはいきません。肩書きによって実現する時間は大きく違います。総理大臣ならだいたい十数年から二十年はかかりますね」
こいつ俺をからかってやがると思った。
「そうなるって証拠があるのかよ」
つい乱暴な口調になったが男は気にもとめない様子で続けた。
「そのためにサンプルをご用意してあります」
「サンプル?」
男は一枚の紙を取り出していった。
「これは一日しか効き目のない名刺です。ここに名前と肩書きを書いてください。明日中その効果は続くでしょう」
男がよこした紙は普通の名刺サイズの白紙だった。俺は少し考えていった。
「肩書きって何でもいいのか。たとえばモテ男とか宝くじに当たった男とかでも」
「いいですよ、ただ、サンプルですので効果は一日限りということをお忘れ無く」
俺はしばらく考えて末に課長の顔を見返したい思いでこう書いた。
『一日に十台新車を売った男』そして真ん中に名前を書き入れた。
肩書きを見ると男は微笑を浮かべていった。
「結構です。ただし名刺はこれ一枚だけですので気をつけて。ではまた明日の晩に」
そう言い残すと彼は店を出て行った。

名刺の効果は素晴らしかった。差し出したとたんに商談成立という具合で十台の車を売るのに半日とかからなかった。そして十一台目は結局売れなかった。

その夜俺は早くから昨日の居酒屋で待った。やがて現れた男が椅子に座るのも待たずに、咳き込むように話しかけた。
「すごい、理由はわからないが効き目は抜群だった。是非あんな名刺を作ってくれ」
興奮状態の俺を男は目で軽く制していった。
「まあ、慌てないで。それでどんな肩書きを入れるつもりで?」
俺ははっとした。そこまでは考えていなかった。
「まだ考えていないんでしょう。大丈夫、時間はたっぷりありますよ。決まったらここに来てください、私はいつでもいますから」

それからずっと考え続けているが結論はまだ出ない。金、名誉、女、そのほか人が欲しいと思うありとあらゆる要素を思い浮かべるが、これという肩書きを思いつかない。
大会社の社長になるとして、会社の経営なんかに興味はない。また、野球やサッカーの選手になっても年中プレーしたくはない。俳優やミュージシャンになりたいとも思わない。今の俺そのままで幸福でたのしい生活が実現できるのが一番だ。
そう考えると単純に金を稼ぐ手段として宝くじや競輪、競馬での一攫千金ぐらいしか思い浮かばない。しかしせっかくの幸運をそんなことで使い果たしたくはなかった。
決心のつかないまま日々が過ぎていった。会社ではまた営業成績が下がり、家庭では妻の愚痴や子供らの喧噪に煩わされる毎日だ。
「うるさい! 静かにしろ」
ある夜、そう怒鳴った瞬間、俺の頭の中で何かが炸裂した。本当に欲しいものがわかった。

「これでいいんだな」
注文者を見ながら老人が笑い顔でいった。
「本人の出した結論です」
男も微笑んで答えた。
名刺の肩書き欄にはこうあった。
『世界一幸福な男』