佳作「栖の底 志水ゆき」

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2016.11.15

第20回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「栖の底 志水ゆき」

その冬、草太は珍しく早朝に目が覚めた。いつもなら妻に激しく呼ばれるまで瞼が開かないというのに、どうしたことか。草太がベッドの中で寝返りを打つと、クローゼットに掛かった背広とワイシャツが目に入った。真新しいネクタイも一緒にある。草太は「ああ、そうか」と心の中で納得した。今日は課長として出社する日だ。きっと興奮して早起きになったのだろう。
草太はベッドから起き上がると、まずトイレに行き、それから台所に顔を出した。だが妻の姿がない。使った形跡も感じられず、朝食もなかった。草太は眉根を寄せながら、手近な椅子に腰を下ろした。壁に掛かった丸時計に目をやると、午前五時三十分を過ぎている。結婚して五年。ふたりに子はなく、妻は仕事をしていない。こんなに朝早く出掛ける用事など、当然あるはずもなかった。
「なんなんだ、いったい」
草太はテーブルに頬杖をつき、深い溜め息をついた。
そうだ、実家になにかあって帰ったのかもしれない。
草太が寝室に戻り、ベッドの脇机に置いてあった携帯電話に手を伸ばした。が、すぐに草太はあるものに気づいた。電話の下に、折りたたんだ紙片がある。うっすらと透けて見える緑色の線が、離婚届だと語っていた。
草太は一瞬だけ顔を強張らせたが、すぐに落ち着きを取り戻した。既に数ヶ月前から気配はあった。妻との距離。空気の重さ。それは他人といるより虚しく、息苦しいものだった。
実家に電話することをやめた草太は、携帯を寝巻きの胸ポケットに入れると、台所に戻った。とりあえず朝食は作ろうと思った。空腹で出社しては、昼まで体力がもたない。
炊飯器は空だったが、冷凍庫に食パンが入っていた。しかし即席スープの買い置きはなく、合わないと思ったが味噌汁を作ることにした。冷蔵庫を開けて具材を探す。豆腐や油揚げはないし、野菜庫も空だ。他に何かないかと探したとき、隅に置いてあった小さなダンボールが目に入った。それは実家から送られてきたもので、開けてみると乾物が入っていた。
「ワカメか……」
草太は袋を取り出すと、鍋に水を入れ、ガスの火を点けた。
こういった生活食材を送ってくれるのは、母親ではなく父のほうだ。独身だった頃、ひとり暮らしの経験からか、たまにカップ麺やレトルトカレーなどの非常食を送ってくる。
草太が十八のときは大学進学を反対し、二十二のときは、そのまま東京に就職することを反対した父なのに、結婚してからも、それはずっと続いていた。
蓋をしていない水は、沸騰するまで時間がかかる。草太は小さな気泡が生まれはじめた水面をじっと見つめた。熱気が顔全体にまとわりついたが、それでも離れようとしなかった。
鏡のように水面に映る自分の顔。今年三十歳になる容貌は、少しずつ父に似てきている。
口許にできた皺。目の周りのたるみ。荒れはじめた肌は、きっと不規則な生活習慣からだなと草太は思い、僅かに苦笑した。
徐々に気泡は大きくなり、その数も増えてゆく。慌ただしく底から生まれては水面で弾け、沸騰したことを知らせていた。
「あっつ!」
さすがに頬が焼けそうに熱いと感じ、草太は冷蔵庫から味噌を出そうとした。
「……あ」
最初に探しておけばよかった……。
味噌がない。
愕然としている草太の背後から異臭が漂ってきた。振り返ると、鍋から灰色の煙がたちのぼっている。ひとり分の水しか入れていなかったので、沸騰してからなくなるまでがあっという間だった。慌てて火を止め、今頃になって換気扇を回しはじめた。白煙がみるみる外へ流れてゆく。
鍋は真っ黒だった。抜けたような底の先に闇が広がっている。
俺はなんのために課長になったのか。
誰のために今日まで頑張ってきたのか。
草太はその場に座りこむと、まだうっすらと煙が残る台所を見渡した。妻と、そしてこれから出逢う我が子と暮らすために購入したマンション……。ふと懐かしい童謡が頭の中で低く流れた。
もしかすると俺は、ずっとあの人に認めてもらいたかったのかもしれない。
草太は胸ポケットから携帯電話を取り出した。まず最初に上司に話し、それから実家の番号を画面に出した。