佳作「温かな魔法 鶴田千草」

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2016.11.15

第20回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「温かな魔法 鶴田千草」

朝の予報のとおり、夕方になると窓の外は木枯らしが吹き始めた。
佐知子は、久しぶりに出してきたカセットコンロに水を入れた鍋を乗せ、点火した。陶器製の真っ白な鍋で蓋は藍色。普通の土鍋より高さがあってぽってりとした感じだ。
今日、買い物の帰りにいつもの道で佐知子は見慣れない雑貨店を見つけた。何気なく中をのぞくと、銀髪のおばあさんが一人で店番をしていた。小さな棚の隅に置かれた真っ白な鍋に佐知子が目を止めると、おばあさんはにっこり笑ってこう言った。
「お目が高いわ。その鍋は魔法の鍋なのよ」
材料を何も入れずに水を沸かすだけで、美味しい鍋料理ができるという。
「水だけで?」
「そう。お水だけ」
おばあさんは右手の人差し指をぴんと立てて、ふふっと笑った。
さすがにおばあさんの言葉をまるごと信じたわけではなかったが、気がつくと佐知子は、
『魔法の鍋』を手にしていた。
佐知子の夫の昌之は今の部署に代わってからずいぶん帰りが遅くなった。昨年社会人になった長男の琉世も、毎日、飲み会だ合コンだと、飛び歩いて全然早く帰ってこないし、長女の果奈も大学のサークルの付き合いやバイトで帰りが遅い。佐知子は夕食を一人で食べることが増えた。
どうせ、今日もみんな遅くて何かしら食べてくるだろうから、もし『魔法』が始動しなくて夕食ができなくても、佐知子が夕食を抜けばいいだけの話だ。
鍋がぐつぐつと音をたて始めたころ、玄関のチャイムが鳴った。時計を見ると七時少し前だ。いったい誰だろうと、佐知子が立ち上がりかけると、それより早く手にビニル袋を下げた琉世が台所に入ってきた。食卓の鍋を見て、お、という顔をする。
「どうしたの。ずいぶん早いのね」
目を丸くしている佐知子に、琉世は照れ笑いを浮かべてビニル袋を渡した。
「メンバーが二人も都合悪くなってさ、飲み会は中止。あ、これ、会社でもらった。何か有名な店の豆腐だって。それとどっかの土産の柚子ポン酢」
佐知子は気を取り直して考えた。これでとりあえず湯豆腐ができる。冷蔵庫にネギとかありあわせの野菜があるのだろう。二人分の夕食には足りる。
また、玄関のチャイムが鳴った。驚いたことに今度は果奈だった。果奈も同じようなビニル袋を下げている。
「ただいま。バイト、急にシフト変更になっちゃって。晩ご飯、私のぶんもある?」
果奈も食卓の鍋を見て、おおっ、という顔をする。
「私ってば、すごいナイスタイミングかも」
果奈が差し出したビニル袋の中には、水菜とシイタケが入っていた。
「バイト先の人から。知り合いにたくさんもらったんだって。あれ、お兄ちゃんも帰ってきてんの。珍しい」
二人が自室で着替えているあいだに、佐知子は豆腐と野菜を切って夕食の用意をした。琉世と果奈が台所に戻ってきて食卓を眺めた。
「何かさ」
果奈が胸の前で腕を組んだ。
「精進料理みたいだね」
「お互い急に早く帰ってきて、ぜいたくは言えないだろ」
琉世は冷蔵庫から缶ビールを出して開けた。
「ま、確かに、ちょっとさびしいけど」
そこへ、また玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろ」
果奈が首をかしげた。
「ただいま」
声がして、昌之が台所に入ってきた。
「お、鍋か。ちょうどよかった」
「お父さん。ずいぶん早いじゃん」
「取引先でいい物もらったんだ。それで急いで帰ってきたのさ」
昌之は手に下げた発泡スチロールの箱を果奈に渡した。箱を開けた果奈が歓声をあげた。
「わ、豚肉だ。最高級薩摩黒豚だって」
果奈はしげしげと豚肉を眺め、それから顔を上げて自分が持って帰ってきた野菜と、兄の豆腐とポン酢を見た。
「何か、お母さん、すごい」
昌之が、「何が?」という顔をする。
「だって、わかるわけないのに。私達みんな今日に限って早く帰ってくることも、何をもらってくるかも。なのに、どうしてお鍋の用意がしてあったの?」
家族みんなが佐知子のほうを見た。
「それはね」
佐知子は人差し指をぴんと立て、ふふっと笑った。
「ちょっとした魔法なのよ」