佳作「現実に落ちる 海老澤一平太」

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2016.12.15

第21回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「現実に落ちる 海老澤一平太」

例えば目の前を通り過ぎたおっさんだ。
この街の駅は朝の出勤ラッシュの時間を過ぎれば、ほぼ無人になる。
開発が頓挫し周囲には鉄パイプで仕切った空き地が点在する。商店も無い為、通勤の時間を過ぎれば、人は居らず、客待ちのタクシーも居らず、一時間に一本、バスが来るぐらいだ。
そんな駅前のベンチに座っているのは僕ぐらいしか居らず、通り過ぎたおっさんもまた珍しい。
珍しいのには訳がある。
実はあのおっさんは、僕を監視するために雇われたスパイなのだ。
そしてこの僕も同業者だ。
学生でスパイなんて現実にはないだろ。
そう思うだろう。
確かに、そう思われても不思議は無い。
なぜなら、僕たちスパイは、特殊な訓練を受け、完璧に日常に溶け込んでいるからだ。
先生や同級生、親兄弟だって知らない。
知らないのだから、当然、彼らから見れば、僕は不登校の不良学生に見えることだろう。
だが、真実は違う。僕は組織の命令に背いたことにより、命を狙われているのだ。
こうやって、人気の無い駅前でベンチに座っているのも、周囲の人間を巻き込まない為に、距離を取っているのであって、決して勉強が嫌いだからとか、友達がいないから等という子供じみた理由から学校に行かないのではない。
スマートフォンを取り出す。最近の携帯電話は多機能なので、わざわざ僕たちスパイ用に改造することなく、仕事に使えるのがうれしい。
ニュースを見る。情報収集も大切な仕事の内だし、一見、関係ない事件が僕に関わってくることは良くあるのだ
ましてや、監視の目があちこちにあるとなれば、気付いていない『フリ』をすることも必要だろう。
脱走犯のニュースが目に付いた。
犯人は僕と同じ十五歳だという。上手く脱走したようだが、間抜けな奴だ。僕なら、脱走した事すら気付かせないだろう。スパイとしては使えない。
他には主婦が殺害された事件。強盗。恐喝。まぁ、日常ともいえる事件ばかりだ。僕に関係がありそうな事件はないことが確認できた。
昼に近づいた。もう家に帰っても、誰もいないだろう。これで無関係の人間を巻き込むことなく、安心して休めるというものだ。
立ち上がって、大きく伸びをした。それとは対照にベンチに腰を下ろした人がいた。
帽子を深くかぶっていて顔は見えなったが、男であるらしいことは分かった。
「ちょっと、いいかな」
来た。僕の神経は昂ぶった。
これは映画でも良く描写されていることだが、暗殺者は大概、普通の人間のフリをしている。気さくに話しかけて相手を安心させ、隙を突いて殺すのだ。僕は最大限の警戒心を払いながら答えた。
「僕、もう、帰るんで」
「君、学生だろ」
僕の答えを無視するかのように話を続ける。
むかつく奴だ。こういった奴は無視しておこう。僕は構わず家路についた。
顔の横に壁がぶつかった。いや、僕が地面に倒れたのだ。突然の事で何が起こったのか、わからなかった。目の前にシューズが見えたので、それを辿って顔を見上げた。どこかで見た顔だった。だけど、思い出せない。男は手に持っていたバールを無造作に放った。
激しい痛みは無かった。体に力が入らず、心臓の鼓動が振動となって頭まで響いてきていた。
拍動がある度に、頭から血が噴出すのを感じた。
ほら、やっぱりそうじゃないか。
僕は狙われていたのだ。
隣に座っていた彼は僕の懐から財布を取り出すと何か言った。声は聞こえなかった。唇が読めるわけじゃないが、多分「ごめん」とか言っているのだろう。
彼の顔をぼんやり見上げていると、記憶が彼の存在を探し当てた。
彼を見たのはスマートフォンの中だった。
彼は脱走犯の……。指名手配の映像顔写真と逆行になっている彼のシルエットが重なった。
彼は暗殺者ではなく、失敗して捕まった間抜けなスパイなのだろう。そして逃げている最中に同業者の僕を見つけて……。そんなことはどうでもいい。なんだこれ? 嫌だ。死にたくない。
現実と始めて向き合えた。だけど、その世界は闇に落ちていった。