選外佳作「メッセージ 長月竜胆」

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2016.12.15

第21回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「メッセージ 長月竜胆」

とあるアパートの一室に若い夫婦が越してきた。美人で感じのいい奥さんと、これといって特徴もない平凡な雰囲気の旦那。
何故あんな美人とあんなつまらない男が一緒になるのだろう。多くの世の男がそう思うに違いない。隣に住む男もまた例外ではなかった。表面上は隣人として二人を歓迎しながらも、心の内には妬みをくすぶらせている。
まあ、よくある話だ。隣の芝生はいつだって青い。それでも皆、余計なトラブルは避けたいから、本音と建て前を使い分ける。この男にしたって、ただそれだけのこと。少なくとも、この時点ではそのはずだった。
次の日曜日。ひまを持て余した男は、昼間からベッドの上でゴロゴロと寝そべっていた。見たいテレビもないし、音楽を聴く趣味もない。静かな部屋の中でぼうっと過ごしていると、ある異変に気付く。
壁越しに聞こえてくるカタカタという奇妙な音。あの夫婦の部屋からだ。苦情を言うほど大げさなものではないが、一定のリズムで繰り返されるその音は、いやに耳に残る。何気なく耳を傾けていた男はふと思った。
「ひょっとしてこれは、モールス信号というやつではないか?」
退屈を持て余す男の些細な空想である。少し面白くてひま潰しにさえなればそれでいいのだ。そんな軽い遊びのつもりだった。ところが、調べた結果判明したのは思わぬ事実。
「これはまさか……SOS?」
何度確認してみても、やはりそれが示すものは、救難信号“SOS”に違いない。一体これはどうしたことか。男はしばらく頭を悩ませていたが、やがて一つの結論に辿りつく。
「これはあの奥さんからのSOSなのだ! あの美しい奥さんとあんな退屈な旦那が釣り合っているわけもない。弱みを握られているとか、きっと何か特別な事情があるのだろう」
思いつきのモールス信号説が的中したことで、男は自らの直感に変な自信をつけていた。それに、普段からくすぶらせていた妬みや不満のせいもあるのだろう。もはや現実と妄想、願望の区別も怪しい状態だった。
その翌日、男は旦那が出勤したのを見計らって、さっそく隣の家へ押しかける。奥さんが戸を開けるや否や、力強く迫って言った。
「何か困っていることはありませんか? 私でよければ力になります!」
まるで何かにとり憑かれでもしたような異様な雰囲気。奥さんも明らかに引きながら、
「あの……ありがとうございます。何かあった時には相談させていただきますね」
と愛想笑いを残し、逃げるように引っ込んでしまう。それはそうだろう。しかし、今の男にはその様子さえ都合よく映るのだ。
「ふむ、この場で言えることなら、あんな形でメッセージを送ってくるはずもないか。奥さんのあの戸惑った態度、私に向けた笑顔、やはり間違いない」
男はすっかり勝手な想像にとりつかれ、それは徐々にエスカレートしていった。あの音を聞く度に思いを強くしていく。あれは奥さんから自分へのメッセージ。それに応えることが自身の使命。そんな熱い思いにうかされた男は、いよいよ暴走し、凶行に走る。
あろうことか、帰宅途中の旦那を待ち伏せし、いきなり飛び掛かったのだ。しかし、現実は妄想通りいくものではない。直後、ひっくり返ったのは襲い掛かった男の方だった。というのも、この旦那、平凡で大人しそうな外見に似合わず、空手の腕はかなりのもの。不意打ちとはいえ、ろくに運動もしない優男にどうこうできるはずもなかった。男は路上にだらしなくのびたまま、駆けつけた警察官にあっさり御用となる。
その後、旦那が警察官と一緒に帰ってきたのを見て、奥さんは目を丸くした。事情を聞かされると、恐怖に震えながら語る。
「まさかお隣さんがこんなことをするなんて。最近様子がおかしかったんです。何か付きまとわれているような感じで……」
これに警察官も頷く。
「ええ、おそらくはストーカーでしょうな。あの男、連行中も奥さんについて訳の分からないことを叫び散らしていましたから」
「怖いわ……」
震える奥さんの肩を、旦那は優しく支える。
「大丈夫だよ。もう逮捕されたからね。コーヒーでも飲んで落ち着くといい」
そして、壁際に置かれたコーヒーメーカーのスイッチを入れた。静かに眠っていたその機械は、小刻みに震えながら活動を開始する。
「ああ、これは気が利かなくて失礼しました。刑事さんもコーヒーいかがですか」
「どうぞお構いなく。しかし良い香りですね。それに何とも小気味の良い音だ」
「ええ、まあ。古いので少しうるさいんですけど、慣れればこれも悪くないものです」
一定のリズムを刻みながら、コーヒーメーカーはしばらくカタカタと揺れ続けた。