佳作「神の存在 江口絵里子」

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2017.01.15

第22回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「神の存在 江口絵里子」

腕時計に目をやり、ため息をつく。ベッドの柵にもたれ何度もその動作を繰り返す夫が目ざわりで、私は窓の外に目をやった。満車の駐車場に空きが出ると上がる遮断機を前に、長い車の列が出来ている。
「それにしても、遅くないか」
夫はまた腕時計に目をやった。
「……遅いわね」
私も、深いため息をつく。

私たちには一歳五ヶ月の娘がいる。夫とベッドの上で遊んでいた娘は、夫が目を離した一瞬の隙にベッドから転落した。泣きじゃくる娘の腕はみるみるうちに腫れ上がり、私たちは急いで夫の運転する車で病院へと向かった。私は「どうして目を離したの?」と問い質したい気持ちを抑え、「とにかく安全運転で」とだけ告げた。夫は子煩悩で、仕事でどんなに疲れて帰ってきても娘との遊びを欠かさない。どれだけ夫が娘を愛しているか、一番よくわかっているのは私だ。責められるはずがない。
病院に到着し、すぐにレントゲンを撮った。『左上腕骨顆上骨折』と診断された。折れた骨は痛々しい角度に曲がっていてすぐに手術が必要だった。手術の所要時間は一?二時間ということだった。
全身麻酔による手術が始まったのは午前九時。そして今、午前十一時を過ぎている。待つ時間が長くなればなるほど、さまざまは不安が脳裏をよぎる。腕は元に戻るのか、麻酔からちゃんと覚めるのか、無事戻ってくるのか……。
夫はおもむろに窓辺へと近づいた。両手を合わせて目を瞑り、何やらぶつぶつと唱えはじめた。神頼みをしているようだ。ベッドサイドに移動してその様子を見ていた私は、神頼みの苦い経験を思い出した。
子供のころ、『トリー』という名のインコを飼っていた。水色の毛で覆われ羽と頭に淡い黄色が混ざっていて、澄んだ目をした上品なインコだった。私はときどき、トリーを庭に放して遊ばせた。木から木へと自由に飛び移るトリー。決して遠くへ飛んで行こうとはしなかった。だから私は安心しきっていた。ある日の夕方、そろそろ家に戻そうと「トリー!」と私が声をかけたとき、こちらに向かって飛び立ったトリーを、岩陰から飛び上がった近所のノラ猫が口で捕まえ、瞬く間に走り去った。私は一瞬呆然とし、すぐ我に返って慌てて後を追った。陽が落ちて真っ暗になるまで必至に探し回ったが、猫もトリーも見つからなかった。私は毎日神様にお願いした。
「どうかトリーを無事に帰してください」と。
数日後ノラ猫の姿は見かけたけれど、トリーが戻ってくることはなかった。
そのときから私は、神の存在を信じていない。

「ママは、神頼みしないんだよな」
夫は娘が産まれてから私のことをママと呼ぶ。
「ああ、あれ、覚えてたんだ」
付き合ってたころに話したトリーのことを、夫は覚えているらしい。
「そのときのインコ、もしかしたら猫から逃げ切って自由に生きてたかもな」
「え?」
「いや、そうだったらいいな、っていう俺の願望だけど」
そんなふうに考えたことは一度もなかった。あのとき、あの猫に捕まって、死んじゃったんだ。ずっと、ずっとそう思っていた。けれど、もしかしたら生きていたかもしれない。家に戻ってこなかっただけで、どこかで幸せに生きていたのかもしれない。
目頭がジーンと熱くなり、思わず涙があふれそうになった。そのとき病室のドアがノックされ、静かに開いたドアの向こうで、年配の女性が「失礼いたします」と一礼し、お掃除よろしいでしょうか、と続けた。
「あ、お願いします」と私が言うと、夫は「ちょっと出てくる」とポケットに入っているタバコの箱を取り出しながら、女性と入れ替わり病室を出て行った。
女性は、薄い水色の制服を着て、制服と同じ布地の帽子をかぶっていた。制服のポケットと帽子には淡い黄色のラインが入っている。女性はふいに、モップをかける手を止め、顔を上げた。私と目が合う。薄化粧なのに色白で、澄んだ目をしたとても上品な顔立ちの人だった。まるトリーのような……。
トリー? トリーなの!
私は心の中でそう叫び、まさかそんなことあるわけない、とすぐに自分の叫びを否定した。
女性は私の驚きに全く動じず穏やかに微笑むと、再びモップをかけ始めた。そのとき、女性が首から下げていた名札の文字が目に入った。
『神』
えっ! 私は驚きのあまり声を漏らした。それでもやっぱりその女性は動じず、さっと掃除をすませると「失礼いたしました」とまた一礼して病室を出て行った。私は思わず女性が去って行ったドアに向かって手を合わせて目を瞑り、
『どうか娘の手術が無事に終わりますように』
と心の中で祈った。
ドアがガラッと開く音がして、私はパッと目を開けた。
夫だった。私は合わせていた手を慌てて離し、とりあえず何か言おうとしたとき、夫の後ろから看護師の声が聞こえた。
「手術、無事終わりましたよ。娘さんが待っているので迎えに行ってあげてください」
私たちは足早に、娘の元へと急いだ。