選外佳作「プロ新人 藤井麦」

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2017.03.15

第24回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「プロ新人 藤井麦」

――愛車BMWでの出勤は、今朝が最後だ。帰りは、運転手つきの役員用センチュリーが私を送るだろう。このBMWは、部下が恭しく運転して自宅に届けるだろう――
そう思うと、はやる心を抑えることができず、いつもより早く本社に着いた。
「登録のないお車です。こちらに部署とご署名をお願いします」
駐車場の入り口で、いきなり守衛に止められた。
――何だと! この吉日にケチをつける気か――
「人事部長の沢田だ。これからは覚えておくことだね」
――私は、鷹揚に対処してやった。どうやら新人らしい。今までいた奴とは違うな。あとで役員と知って真っ青になるがいい――
「登録のないお車は、どなた様に限らず、こちらにご記入いただくことになっています」
――何だ、こいつは! 本気で言っているのか。最高級イタリア製生地で仕立てたスーツが見えないのか? この襟にある記章は、株式会社鳥井の社章だろうが!――
守衛には、取締役の名前と顔はすべて覚えてさせているはずだ。発令前だから、私が分からなくてもいい、とでもいうのか。
「人事部に電話したまえ。誰か出るだろう」
「恐れ入りますが、さ、沢田様がお電話していただけますでしょうか。私は、派遣の身なので、派遣先には直接電話できないのです」
――おい、おい、誰にものを言っているのだ! 私はさっき、はっきりと「人事部長」と告げたはずだ! 派遣の何たるかを知らないとでも思っているのか――
そのとき、慌てて駆けつけてきた男がいた。
――どこかで見た顔だな、そうだ、今春採用者を集めて訓示した際、正面最前列で熱心に聞いていた若造だ。新人か――
「沢田様、大変不調法なことを、何とお詫び申し上げればいいのか。お荷物をお持ちさせていただきます。お車は、私どもの方で丁重にお預かりさせていただきますので、役員エレベーターにご案内申し上げます。さあ、こちらからどうぞ……」
機転の利く奴だな。覚えておこう。めでたい日が、たかが新米の守衛ごときに不愉快にされたのではたまらない。この若造の采配に委ねよう。私のことを、「人事部長」とは言わないで「沢田様」と言ったな、取締役になることに配慮した言い方だ。ああいう奴がプロ新人というべき奴だ。私は、自分が入社した時に「プロ新人」、そう言われていたことを思い出した。できる奴とはそういう奴だ。
取締役に就任してあわただしい行事や祝い事が一段落ついた頃、鳥井専務から「私の車を社に持ってこさせている。君に運転してもらって、一緒に京都で飯でもどうだ」と誘いがあった。鳥井専務は、人望もあり、創業者一族である。願ってもない幸運だ。二人きりで話したいということだ。私は二つ返事で「お供させていただきます」と応えた。
鳥井専務の新車を運転して、駐車場を出ようとしたとき、またあの新米守衛が立ちふさがり、「申し訳ございません。このお車の登録が回って来ていません。沢田様こちらに記載を……」というではないか。私の顔と名前は、登録が回って来たのか、先日のことがあったからなのか、覚えたようではある。しかし、それ以外は学ぶことのできない奴だ。
「専務の鳥井様をお乗せしている」、私は憮然として言った。
「まことに申し訳ございません。もう、鳥井専務様と沢田取締役様であることは、新米の私も存じ上げておりますが、なにぶん、ご登録のないナンバーのお車なので……。お通しする際には、ご記帳をお願いしなくては……」
ここでモタモタしたら、醜態をさらすことになる。
「私が全責任を取る。開けたまえ」
それでもまだ新米は、開けようとはせずに記帳ノートを差し出してもぞもぞしている。
「……そうでしたね。決まり事を失念していました。私が書きましょう」
後部座席の窓をすーっと開け、穏やかに専務が言われた。私があっけにとられている間に、専務は守衛から受け取った記帳ノートに名前などを書かれた。
私は失態で顔が真っ赤になった。
駐車場から道路に出てすぐ、バックミラーをみると、専務は何事もなかったように書類に目を落とされていた。そしてミラーの端に、あの守衛が道路そばまで出てきて見送っているのが映っていた。あっという間に、守衛は豆粒のようになったが、最後まで、直立不動で最敬礼をしていた。
専務はいつの間にか真っ直ぐに座り直され、つぶやかれた。
「彼こそは、プロの新人だな。良いものを見たよ」
私は、一層、赤面するしかなかった。