選外佳作「桜色の別れ 相川恭太郎」

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2017.04.15

第25回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「桜色の別れ 相川恭太郎」

夕方の淡い光が、一本の桜の木を照らしていた。学習塾からの帰り道、中学生の謙二がその公園を通りかかったのは、午後四時近くのことだった。
公園の真ん中には、満開に咲いた花びらをつけた桜の木があった。その色鮮やかさに惹かれた謙二は、吸い込まれるように足を止め眺め始めた。時おり風が吹きつけ、桜の木を揺らしては、花びらたちが手の平の上にひらひらと舞い落ちてくる。
「きれいだと思わない?」
突然、背後から少女の声がした。
謙二が振り返ると、そこには同じ歳ぐらいの色白な少女が立っていた。
「わたし、この季節が一番好きなの」
と、口を尖らせつつ、少女はか細い声でつぶやいた。
「このあたりの学校に行っているの?」と、謙二は訊いた。
「学校には行ってない」と、少女は首をわずかに振る仕草をみせながら答えた。
少女の顔をじっと見つめると、くりくりとした目は、まるでガラス玉のように透明でキラキラと輝いている。その瞳に覗きこまれると、自分の感情まで見透かされてしまいそうで、謙二は胸にときめく気持ちを覚えた。
次の日。早めに部活を終えた謙二は、息を切らせながら急いであの公園へ向かった。
公園の中に目を向けると、少女は前日と同じ場所に立っていた。その視線の先には、あの桜の木がある。謙二の姿に気づき、目が合うと、口角を上げ優しそうな笑みを浮かべた。
「また会えたね」と、少女は大きく手を振っている。謙二も笑顔で手を振り返した。
少女に近寄ると、その瞳に涙がうっすらと浮かんでいることに気づいた。
「どうして泣いているの?」
「泣いてないよ。目にゴミが入っただけ」
と、少女は慌てて瞼をこすった。
「桜が咲いている時間って、どれくらいか知ってる?」
「一週間ぐらいかな」
「こんなにきれいなのに、いつか散るって寂しいと思わない」
少女は桜の幹に手を当てた。「ずっと咲き続けられたらいいのに」と真剣な表情で言った。
ここ数日間、あの少女に会うために公園に行くようになっていた。彼女の名前さえ知らなかったが、ただ会って話している時間がとても楽しかった。
だが、今日は違っていた。その日彼女はいつもよりも元気がないように見えた。顔色も悪く、疲れたような表情で立っている。
「大丈夫? 元気ないね」と、謙二が尋ねても、少女は返事もせず、じっと桜の木を見つめている。
桜の花びらは以前より萎れて、数も少なくなっていた。またいくつかは地面に落ちたりしていて、こげ茶色の細い枝々が目立つようになり、どこか寂しささえも感じさせる。
「実はもう会えないんだ」と、悲しそうな声で少女は言った。
「どうして?」謙二は尋ねた。
だが少女は、何かに耐えるかのように何も答えなかった。
突然冷たい雨が降り始めた。少女は傘もささずに濡れながら立ちつくしている。
激しい雨風が、桜の木に強く打ちつけては、強引にその花びらさえも散らせようとしている。
謙二が、傘を渡そうと少女の身体に触れると、少女はわなわなと震えながら泣き始めた。
「遠くに引っ越すことになったの」
「またいつか会える?」
「うん。来年になるかもしれないけど」
「ずっと待ってる」
「ありがとう。かならず戻ってくるから」

数日後。謙二は再び公園に行ってみた。どこを探しても、少女の姿は見あたらなかった。
桜の木の根元に、少女に渡したはずの傘が置いてあるのを見つけた。その近くには、ありがとうと書かれたメモも残されていた。
メモを手に取ると、すぐに彼女が残してくれたものとわかり、涙がこぼれてきては頬を濡らした。
暖かい春の風が、涙で濡れた頬の跡を撫でるように吹きつけた。風に揺られて、桜の木は心地よい音色を奏でる。それによって頭の中に、少女の優しげな後ろ姿の輪郭が、うっすらと浮かび上がってきた。
ゆっくり頭を上げて、花びらがほとんど落ちて、寂しくなった桜の木を見つめた。
さようなら――と、やさしく囁いてみた。
口から出たその言葉は、大きく広がった青空の向こう側にすぐに消えていった。