選外佳作「予備 瀧なつ子」

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2017.06.15

第27回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「予備 瀧なつ子」

ピンチは突然にやってくる。
本命大学の入試の日、早めに家を出たのにも関わらず、人身事故に見舞われて電車内に数十分閉じ込められた。
焦りに焦ったが、試験の開始時間には間に合い、ホッとして席に着いた。
が、受験の神様は俺に厳しい。
ペンケースを開けて、筆記用具を机に出そうとして大変なことに気がついた。
消しゴムがない!
瞬時に昨日の記憶がフラッシュバックする。
予備校の帰り際、ペンケースをぶちまけたのだ。あのときだ。あのとき、消しゴムを拾い忘れたに違いない。
どうしよう。今日の試験は論述もある。消しゴムなしで乗り切るなんで不可能だ。
どこかに買いに走る時間も、もうない。
この一年が無駄になる。そう思ったとき、後ろから声をかけられた。
「どうしました?」
振り返ると、艶やかなショートカットに紺色のブレザーがよく似合うかわいい女の子だった。
「あの、消しゴムを忘れてしまって」
「じゃあ、これどうぞ。予備にもっていたやつなんで」
そう言って彼女は、フィルムに包まれたままの真新しい消しゴムを貸してくれた。
「ありがとうございます!」
「いえ。がんばりましょう」
彼女は天使のような顔で、俺に微笑んだ。
なんて優しいんだ。なんてしっかりしているんだ。そして、なんてかわいいんだ。
俺の受かりたい理由に、彼女の存在が急遽加わり、ものすごい熱意で試験に取り組んだ。
その甲斐あって、見事合格を果たした。
彼女も受かっていますように。彼女も第一志望ですように。
入学まで、俺は日々祈った。
そして、オリエンテーションで彼女を見つけたときは、気持ちを抑えられずについ小走りに駆け寄った。
「入試のときはどうもありがとう」
「ああ、あのときの。一緒に合格できてよかったね。これからよろしく」
あのときと同じようにピュアな表情で微笑む彼女には、春らしいピンクのカーディガンもよく似合っていた。
彼女は雛奈子と名乗った。
雛奈子と俺は、あっという間に距離が縮まり、付き合い始めるまでにそう時間はかからなかった。
初めて会ったときと変わらずに、しっかりものの雛奈子。よく気のきく雛奈子。そして、幼い子のように微笑み、大人のように俺を支えてくれる雛奈子。
初めてできた彼女に、俺は毎日夢中だった。
やがて夏が近づき、雛奈子との遠出デートのためにバイトに励んでいたころ、学科の男友達が神妙な顔つきで俺にスマホを見せてきた。
「なあ、これ、雛奈子じゃない?」
表示された写真には、見覚えのある姿の女の子が知らない男と手をつないで写っていた。
絶句している俺に、友達は言った。
「昨日見たんだよ。お前、雛奈子と別れてないよな?」
別れてない。
この写真はなんだ。
雛奈子が毎日使っているカバン。バーゲンで買ったと見せてくれたワンピース。丸みのあるショートカット。何から何まで俺の知っている雛奈子が、俺の知らない男と指を絡ませている。

「なんなんだよこれ」
その日の夜、彼女を呼び出して問い詰めた。
友達に転送してもらった写真を見せると、雛奈子はさっと色を失い、細い指先を震わせた。
「だれなんだよこいつ」
「……高校の先輩」
消え入りそうな声で雛奈子が言う。
「なんで手つないでんだよ」
俺も手が震えてくる。手だけではない。声も、膝も。
長い長い沈黙のあと、俯いた雛奈子はそっと唇をうごかした。
「付き合ってて……。その、去年から」
「去年から……?去年からって、うそだろ。じゃあ、俺とはなんなんだよ!」
雛奈子は華奢な肩を縮めて、泣き出した。
ごめんね、ごめんね。不安だったの。
なんどもそれを繰り返す。
そしてその小さな唇からこぼれたことばに愕然とした。
だって、予備がいないと、不安だったの――。