選外佳作「鏡の華 栗太郎」

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2017.09.06

第30回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「鏡の華 栗太郎」

夕食後のリビングでは、十三名の入居者がテレビを取り囲んでいた。今日は麓の町で花火大会が開催されるのだ。花火師たちが腕を競う大会は、毎年五十万人を超える人出があって、町が一番にぎわう日だった。山を切り開いて建てられたグループホーム「せせらぎの里」からは、あいにくと稜線が邪魔をして実際の花火は見られないのだが、大会の一部始終はケーブルテレビで中継されるので、皆はそれを楽しみにしているのだ。

室内を見回して問題が無いことを確認すると、夕紀はリビングからウッドデッキに視線を移した。そこに一台の車椅子がある。入居者の一人、宮野さんの車椅子だ。宮野さんは薄手のショールに首を埋めるようにして、遠い山並みを見つめていた。

「中で一緒に見ましょうよ」

夕紀は幾度か声をかけてみたが、宮野さんは頑なに首を振った。テレビの画面越しに見たって、花火の本当の美しさは伝わらない。やはり音と振動を味わいながら、夜空に開く華を見てこそ。そう言うのだ。

「でも、そこからじゃ、見えないでしょう?」

夕紀が言うと、宮野さんはぷいと顔を背けた。彼女はなかなか難しい人で、こうなってしまっては時間を置く他ない。

「お部屋に戻りたくなったら呼んで下さいね」

宮野さんは返事もしてくれず、膝に置いた両手に目を落していた。リウマチで上手く動かすことができない手の上に、小さな手鏡が置いてある。漆塗りの花模様が美しいその鏡を、宮野さんはとても大切にしているのだ。

金婚式を迎えた時に、ご主人が買ってくれた物だと聞いたことがある。
「はじめての贈り物だったから、本当に驚いたのよ。親が決めた結婚相手で、それほど情の深い夫婦ではなかったし、主人は仕事が忙しくて、会話もほとんどなかったから」

それでも、いつの間にか傍にいることが当たり前になっていたのだと、宮野さんは微笑んだ。ご主人が仕事を引退してからは、あまり言葉を交わすこともないままに、毎日二人で散歩をし、少しずつ老いて行く日々を労わりあい、過ごしてきた。

宮野さん夫婦がグループホームに入居したのは昨春のことだ。宮野さんは膝を痛め車椅子での生活となり、ご主人には認知症の症状が現われており、これ以上の二人暮らしは不可能だとケアマネージャーが判断したのだ。

「花火大会の日に外出したいの」
宮野さんが言い出したのは五月だった。

「あの人が、珍しく誘ってくれたのよ」
嬉しそうに宮野さんは言った。地元で開催される花火大会なのに、宮野さんは一度も行ったことがなかったのだ。

「主人は人ごみが大嫌いで、若い頃に行く行かないで幾度か喧嘩をしたものよ」
そんなことをすっかり忘れてしまったご主人のことを、宮野さんは少しだけ淋しそうに、けれど優しい眼差しで見つめていた。指折り数えて、花火大会の日を楽しみにしていたのだ。けれど今日、宮野さんは一人で車椅子に座っている。

ドーンと、腹の底から響く音が夜の空気を揺らした。一瞬おいて、山陰に光が射す。だが、それだけだった。肝心な花火を夜空に見ることはできない。

華やいだ笑い声があがるリビングを背にして、夕紀はベランダに出た。静かに車椅子に近づくと、宮野さんは眠ってしまったようだった。うつむく口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。

「お部屋に戻りましょうね」

囁いて車椅子のロックを外した時、力が抜けた宮野さんの手から鏡が滑り落ちた。カタンと小さな音を立ててウッドデッキに転がる鏡を、夕紀は慌てて拾いあげた。

瞬間、息を飲む。磨き上げられた鏡面に、鮮やかな華が咲いたのだ。紅と金色。大輪の八重芯だ。

夕紀は反射的に空を見あげた。けれどそこには満月が輝くばかりだ。鏡は、夜空を映し取ったのではないのだ。では、万華鏡のような光の正体は?

「あの人と花火を見ていたのよ」
いつの間にか目を開けていた宮野さんが言った。
「空には見えなくても、その鏡に映ったの」
遠く、アオハズクの声が響いた。

夕紀は手の中の鏡に目を落とした。そこに色鮮やかな華はなく、ただ幾重にもひび割れが走っている。

「申しわけありません。大切になさっていたのに」
夕紀は宮野さんに手鏡を返した。
「いいのよ」
無残な傷跡にも似たひび割れを、宮野さんは動かぬ手で優しくなぞった。

「あの人は、約束を守ってくれたのだもの」