阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「大晦日の電話」福川永介

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2018.01.05

第34回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「大晦日の電話」福川永介

十二月三一日が、あと三十分で終わろうとしていた。
 
ため息をついて、缶コーヒーをすすった。この小さな公園には、私以外誰もいない。ベンチの冷たさがお尻にひんやり伝う。
 
あと三十分で今年が終わる。同時に会社員生活が終了する。
 
四十三年間の会社勤めも終えてみればあっという間だった。
 
「これからどう生きようか―」
 
私はしわくちゃな手を見つめた。
 
趣味も持たずひたすら仕事に邁進してきた。妻は二年前に先に逝ってしまった。私たちは子宝に恵まれなかった。
 
私は夜空を眺める。星の輝きよりも、漆黒の闇が心に侵食してきた。果てしなく深い闇だった。
 
誰もいない家へ帰ろうと腰を上げかけた時、携帯電話が鳴った。思わぬ相手だった。
 
「もしもし」
 
『よう殿村、久々だな』
 
大学時代からの友人、河田からだった。あい変わらずメガホンで叫んでいるような大きな声の響きだ。
 
「どうしたんだ?こんな時に」
 
『実はどうしても知らせたいことがあってよ』
 
「何だよ?」
 
『明日の正月特番の刑事ドラマ、ぜってーに見てくれよな』
 
「ドラマ? まさかお前?」
 
「そう、ついに名前も台詞もある役をもらったんだよ。はははっ」
 
河田は役者だった。といっても無名だ。アルバイトを掛け持ちしながら、芝居を続けていた。芽が出なくても四十年近く憧れを追いかけていたのだ。数年前、一度彼と飲んだ時に近況を聞いた。彼は芝居を愛していた。
 
「すごいじゃないか」
 
友の躍進に声が弾んだ。
 
『あともうひとつ、伝えたいことがあってな』
 
「何だよ?」
 
一拍置き、息を吸う音が受話口の向こうから聞こえた。
 
『―四十二年間、会社勤めご苦労さんだったな』
 
私は口を真一文字に結び、目を閉じた。込み上げてくるものがあった。震えそうになる声をこらえる。
 
「……ったくよ。よく覚えてたな。ただ、正確には四十三年間だからな。そこ間違えるなよ」
 
『細かいねーあい変わらず。さすが経理部長さんだ。ははは』
 
屈託のない笑い声に、河田の堀の深い顔を思い出していた。
 
『ところで殿村。これからのこと、どうするんだ?』
 
痛いところをつかれた。
 
「何も考えてないよ。老後にやりたいことも決めてなかったし。趣味もないしな」
 
『お前、大学時代ギターやってなかったっけ?』
 
「ギターかあ。ああ、確かに」
 
中学の頃から、ミュージシャンになりたくて、毎日ギターを弾いていた気がする。しかし、安定を求めいつしか諦めたのだった。
 
『先生の次はミュージシャンなんてどうだ?』
 
「馬鹿いえよ。この年齢で」
 
『でも、お前がギター弾く姿、いまだに覚えてるよ。あれはカッコよかった』
 
「よく覚えてるな。そんな昔のこと」
 
しばらく会話が続いた。寒さなんて忘れていた。さっきまで沈んでいた気持ちは、羽が生えたように軽くなっていた。
 
『じゃあ、殿村。役者仲間とカウントダウンするから、そろそろ失礼するよ。来年もよろしく。よいお年を』
 
「そうか、楽しそうだな。よいお年を」
 
通話を終えると、大きく伸びをした。夜空の星が眩しく感じた。
 
「まだ終りじゃない、よな」
 
一人つぶやき、缶コーヒーを飲みほす。
 
若々しい声だったな―河田の声の残響が耳にまだ広がっている。
 
私はベンチから腰を上げ、公園の出口へ歩きだした。青春時代の流行歌を口ずさみながら軽快に。
 
体は無意識にギターを弾くポーズをとっていた。しわくちゃな手は楽しそうに踊っている。
 
「正月から営業してる楽器屋なんてあるかな」
 
口から漏れる白い息は音符のようだ。明日は久々に出かけてみようと思った。明日が待ちどおしかった。
 
腕時計を見た。昔、妻からプレゼントしてもらったものだ。希望を刻む秒針を目で追う。  
 
五……四……三……二……一。
 
「今年もよろしくな」
 
私は新しい年に微笑んだ。