阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「植村」石田朋子

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2018.02.07

第35回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「植村」石田朋子

中尾が植村直己に憧れて山岳部に入ったのは二十四年前だ。中学、高校と訓練を積み、三千メートル級の山をいくつも登攀した。大学時代には必死にバイトして、モンブランやヒマラヤも訪れた。しかし、身体が丈夫以外、何の取り柄もない男にスポンサーが付くはずもなく、成り行きでF高校の体育教師になった。府内では『そこそこのレベル』という話だったが、これでそこそこなら、他はどうなのか。いずこの教師もよく続くものだと我が事ながら感心する。

そして、今年も魔の二月。スキー合宿の時期がやってきた。学校のウェブサイトには決して記載しないが、喧嘩、盗難、夜這いと、羽目を外すにも度が過ぎる。五年前にはそれが理由で退学した女子もいる。子供みたいな胸元に赤子を抱き、「先生のおかげです」と挨拶に来られた時は、祝福していいのか、己の監督不行き届きを責めるべきか、分からなかった。その後、規則を強化しようが、見回りを増やそうが、彼らは忍者のように飛び回り、次から次に面倒を起こす。今年も夕食時、生徒らに訓戒を与えた後、自由時間としたが、早速、榊原がやらかした。タブレットの持ち込みは禁じていたにもかかわらず、男子生徒数人と最上階の踊り場でYouTubeを視聴していると女子生徒からの垂れ込み。中尾が足音を忍ばせて指定された場所に行ってみると、誰もいない。垂れ込んだ子に確認すると、「五分前には居たんですけど」。そう、これだ。平気で嘘を口にして、教師があたふたする姿を物陰から嗤っている。昨年は「男子生徒が骨折した」と年配の教諭が騙され、大雪の中、ロッジからゲレンデまで全力疾走する羽目になった。いくら生徒とはいえ悪質極まりなく、中尾もそろそろ本気で転職を考えている。周りには「教師なのに」と咎められるが、善悪の判断もできぬ少年少女の未来など俺の知ったことではない。

そして、合宿三日目、午前中のカリキュラムを終え、ロッジに引き返そうとした時、人数をカウントしていた女子生徒が「一人足りません」と血相を変えた。また榊原。お前は何度注意されたら弁えるのか。他の生徒に尋ねても知らないと首を振り、さすがの中尾も嫌な予感を覚える。あの下手くそがスキーを自在に操れるとも思えず、これは本当にコースを外れて、どこかに迷い込んだのかもしれない。他の教諭に事情を話すと、中尾は一人、ゲレンデに戻った。

レンタルのスキーウェアは地味な紺色で、誰が誰か見分けもつかない。雪がちらつく中、あれがそうかと目を凝らすが、上から滑ってくるのは人違いばかり、十分経ち、十五分経つと、中尾の顔にも焦燥が浮かんだ。

しかし、また嘘だったら――既にロッジに戻っていて、ぬけぬけと言い訳したら――俺は今度こそ、子供相手に何を言うか分からない。スキー合宿だけでない、体育の授業も、文化祭も、常軌を逸した悪戯で周りを困らせ、真面目な生徒を傷つけてきた。親に注意を促しても反省の色すらなく、逆にこちらの力不足と責められる。そして、今度も悪ふざけ、引率する大人の苦労を顧みもしないなら、そんな生徒は二度と帰ってこなくていい。人でなしと言われようと、俺たちはそれほどの辛苦を味わっているのだ。

中尾の瞼にふと植村直己の後ろ姿が浮かび、あの人ならこんな時でさえ仲間の命を最優先にするのだろうと思った。いや、俺だって大人の登山隊ならそうするんだ。あんな悪ガキが相手でなければ。

その時、雑木林の向こうから「せんせぇ」と呼ぶ声がした。驚いて振り返ると榊原だ。尻尾が切れたトカゲみたいに雪の上を這っている。足でも挫いたのか、ひどく苦しそうで、スキー板も履いてない。慌てて駆け寄ると、榊原は涙を浮かべながら「痛いよ、痛い」と呻いた。中尾はすぐに携帯で応援を呼んだ。榊原は他のスキーヤーをよけようとして雑木にぶつかり、そのまま斜面を転げ落ちたらしい。少しでも痛みを和らげようと、榊原を横向きに寝かせ、降雪から庇うように頭を膝の上に抱くと、「せんせぇ、ごめん」と苦しそうに涙を滲ませた。

「大丈夫だ。すぐにレスキュー隊が来る。病院もここから五キロ先だ。すぐに治療してもらえるぞ」

カタカタ震える生徒の身体をさすりながら、こいつはまだほんの子供だと痛感する。「帰ってこなくていい」など、思っていいわけがない。

ふと山を見上げると、白銀の向こうで植村が笑っている。吹雪の中、一人でビバークするのはどんな気持ちだろう。過酷な山で死を覚悟するのは。俺にはここが人生の難所だ。エベレスト登頂だけが偉業じゃない。

やがて遠くにレスキュー隊の声が聞こえると、中尾は大きく手を振った。生徒と二人、大きく声を合わせて。