阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「教えてくれた人」田辺ふみ

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2018.02.07

第35回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「教えてくれた人」田辺ふみ

カチャ。

ドアノブを動かす音にハッと目を覚ました。

耳をすますと、さらにカチャカチャという音が聞こえる。

すぐに起き上がって、玄関に向かった。

母がドアを開けようと、無茶苦茶にドアノブを動かしている。

ただ、勝手に外に出歩く心配はない。鍵を徘徊防止用につまみを取り外せるものに変えて、そのつまみはわたしが保管している。

「お母さん、外は寒いから、お出かけは今度にしようね」

優しく声をかけた。

「あなた、誰? 人を閉じ込めていいと思っているの?」

母はヒステリックに叫ぶ。

また、わたしのことを忘れてしまった。

「わたしはお手伝いに来ている者です。夜だから戸締りしているだけですよ」

母はいいところのお嬢さんだったらしい。

実家には奉公人が何人もいたというが、本当のことかどうかはわからない。ただ、お手伝いなら、知らない顔がいても仕方がないと思ってくれる。

「さ、お休みください」

寝室に案内しようとすると、そわそわするので、トイレに連れて行った。

今日は暴れることもなく、上手く落ち着かせることができたと思っていたら、今度はトイレから出て来ない。

トイレのドアの鍵はかけられないようにしているので、少し開けてのぞくと、母は床にしゃがみこんでいる。

「大丈夫?」

あわてて、一緒にしゃがみこむと、冷たさに気づいた。

尿がこぼれている。

母が拭いてごまかそうとしたのだろう。トイレの床一面に広げられてしまっている。

濡れた服を脱がせ、風呂場で体を洗い、服を着せ、寝かしつけ、それから、トイレを掃除し終わったときには、目を覚ましてから、一時間以上が経っていた。

もう一度、横になると、ため息が出た。

要介護認定の調査では母はいつもしっかりした態度をみせる。だから、いつでもランクは低く判定されてしまう。せめて、もっと、支援サービスを受けることができれば、楽になるのに。

屋根から雪が落ちる音が聞こえてきた。明日は雪かきをしないといけない。会社が休みの日でよかった。そう考えているうちに眠ってしまった。

いつもより寝過ごしてしまったが、朝食前に雪かきを始めた。家の前から大きな道まではきれいにしておかなければならない。

空はどんよりとした灰色で寒いのに、さらに雪が降ってくる。

いいかげんに片付けて、家に入ると、いきなり、つまずいてしまった。

また、外に出ようとしていたのか、母がうずくまっている。

「ごめん、大丈夫?」

たずねても、返事がない。

顔をのぞきこむと、目をつぶっている。

「お母さん、お母さん」

意識がない。あわてて、救急に電話をかけようとしたが、手が止まった。このまま、亡くなってくれたら、楽になれる。

「もういい?」

長い間、見たことのないおだやかな母の表情。きっと、わたしを許してくれる。そう思ってしまうような優しい顔。

それに母はいつも言っていた。

『死ぬなら、ころりと死にたい』

今がチャンスかもしれない。

母が倒れていることに気づかず、そのままになっていたら。いつものようにしっかりと雪かきをして、家に戻ってくるのが遅かったら。

もう一度、そっと、外に出た。

いつの間にか、空は晴れて、屋根や道路に降り積もった雪がまぶしい。

ちらほらと雪が降っている。

「風花」

口に出すと思い出した。

『晴れた空から降ってくる雪を風花というのよ。きれいでしょう』

母がそう教えてくれたのは、小学校の時だろうか。

二人でしばらく見とれていたのを覚えている。寒い中、母とつないだ手だけが暖かかった。

あのときと同じような青い空。白い雪が降ってくる。本物の花びらのように軽やかに舞いながら。

今、わたしの手に温かい母の手はない。

わたしは携帯電話を取り出すと、一、一、九と番号を押した。