阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「表札」出﨑哲弥

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2018.04.09

第37回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「表札」出﨑哲弥

正月三が日が過ぎてから、遅まきながら初詣に出かけた。

境内は閑散としていた。私以外には三人しか参拝客がいない。参拝を済ませた後に、おみくじを引いてみると、小吉だった。

――願望 思うにまかせず目に見えて出来ず

小吉というのは良い方から数えて何番目だったろう。そう考えさせるような、景気の悪い文言が並んでいる。ふと森商会のことが頭に浮かんで、恨めしくなった。

半年前、さえない中年男が突然家を訪ねてきた。玄関に出た私に、男は〈森商会・森昇太郎〉と印刷された名刺を差し出した。

「こちらの表札は、ご主人がご自分でお書きになったものですか?」

森は、わが家の表札を指差して訊いた。

「ええ、そうです」

もともと家を建てた時に表札はなかった。その後、妻が白木の表札板をどこかからもらってきた。私に書けと言うので、嫌々筆を持った。書の心得などない上、役目済ましに書いたものだから、我ながらバランスの悪い不格好な文字が並んでいる。

「別にこだわりがないですから」

ぶっきらぼうに言った。ケチをつけられた気がして不愉快だった。

「そうおっしゃいますが、玄関は運気の通り道ですからね。良い表札には良い運を引き込む力があるんです。私に作らせてもらえませんか」

お決まりの文句なのだろう。値段は一万円だと言う。もはや霊感商法だなと呆れた。追い返そうかとも思ったが、森に漂う情けなさが躊躇させた。

「私も長年色々と勉強してきてましてね、ただお名前を書くわけではないんです」

「表札変えるだけで変わりますか?」

小馬鹿にしたように尋ねると、森は重々しく「はい」と答えた。

私は三十年近く勤めた会社を辞めたばかりだった。自分から退職したのだが、ちょっとした不運な出来事がきっかけといえなくもない。再就職の先はまだ決まっていなかった。この際、森の言うことが間違いだと証明してやろうと、やけくそに近い気持ちになった。

「じゃあ作ってくださいよ」
「ありがとうございます。一ヶ月くらいでお届けできると思います」

森が黄色い袱紗に包んで持ってきた表札は、それなりに立派だった。こうして表札は良いものに変わった。しかし、運はといえば、半年経っても変わりがない。私はいまだに職を得ていない。

小吉のおみくじを木の枝に結びながら、私は森商会を見に行こうと思いついた。森を訪ねるのではない。森商会自体が運に恵まれていそうかどうか、この目で確かめたくなったのである。

森から受け取った名刺を探し出して住所を確認すると、車で二時間ほどの場所だった。カーナビを頼りに森商会へと向かった。

森商会は、古い商店街の中にあった。表札を模した、大きな木製看板がドアの脇に取り付けられている。ドアには本日休業の札が下がっていた。こじんまりした店舗には、ショーウインドウが設けられている。車を降りて近寄って見ると、ガラスの向こうには、有名人の名前を入れた表札が並ぶ。見本なのだろう。メジャーリーグでも活躍したプロ野球選手、主演作をいくつも持つ映画俳優、ベストセラー作家……現総理の名前もあった。

並んだ名前に店舗の佇まいが負けている。とても繁盛しているようには見えない。「ふん」と呟いて車に戻ろうとした。

「あんた、森さんに表札作ってもらいにきたのかね?」

通りがかりの老人が話しかけてきた。

「いえ、もう作ってもらいました」

「ほう、何年も順番を待ったんだろ。そういう話だけどね」

「そんなすごい方なんですか?」

「知らずに作ってもらったのかい。ほら、そこに並んでいる表札は、みんなここで作ってもらってから飛躍していった人たちだ」

「えっ」

「値段も相当張るらしいな。なんでも十万円以上はするとか」

「はあ?」

森昇太郎というあの男は、なぜ、なかば強引にわが家の表札を作ったのだろう。たまたま通りかかって、見るに見かねたということだろうか。そうとしか考えられない。

いや、それよりも気になることがある。表札が変わっても、いっこうに運が向かないのはどういうことなのか。もしかすると、表札を変えていなかったら、大きな不運に見舞われていたのかもしれない。

その不運を具体的にいくつか思い浮かべて、私は身震いした。