阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「鮎大好き」鍋谷末久美

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2018.05.08

第38回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「鮎大好き」鍋谷末久美

マンションのエレベーターを3階で降り、スーパーの買い物袋を両手に提げた美奈子は、足を止めた。

狭い通路の向こう側から子どもたちの走ってくる姿が見えた。

端に寄って、通り過ぎるのを待った。

梨花と同じくらいの年かな?

玄関扉の鍵を開けようとすると、その扉は見知らぬ女の子の手で開けられた。

その子はスニーカーの爪先をトントンと床先に打ち付け、靴を履く間ももどかしい様子で掛け出していった。

嫌だ。間違えた?

マンションの玄関先は一応に同じ形だ。

美奈子は扉の斜め上のネームプレートを確認した。

合っているウチの家。

梨花の友だちかな?

何か他人の家に上がり込むみたい。

出かけるときには揃えてあったはずのスリッパが、片方だけ、玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の中程のトイレの前まで、大きく移動していた。

そのトイレの扉が勢いよくパタンと大きく開けられた。

美奈子はギョッとして、卵の入ったスーパーの袋を落としそうになるのをかろうじてこらえた。

これもまた見知らぬ男の子が飛び出してきて、玄関扉から脱兎のごとく走り去った。

「梨花。玄関の鍵はいつも……」

小言を言いながら向かった先のキッチンには、誰もいなかった。

まったく、あの子ったら「出かけるときは鍵をかけてね」って言ったのに、どこに行ったのだろう。

梨花が小学校に上がるのを待って、パートタイマーに出た美奈子だったが、一人っ子の梨花に鍵を持たせるのも心持たなかった。

それで、小学校で放課後、預かってくれる学童保育を申し込んだのだが「今日は公文があるから帰ります」なんて、習ってもいないお稽古事を口実に帰ってくるようになった。

やはり、あの子に鍵を持たせるのは早かったかと考えながら、冷蔵庫にスーパーで買ってきたものを詰め込んでいると玄関先で

「ただいまー」

と、声がした。

梨花が先頭になって、先ほど通路で擦れ違った子どもたちを引き連れて戻ってきた。

頬を紅潮させ、目をキラキラと輝かせる梨花。

そんな姿を見ていたら何も言えなくなった。子どもたちは順番にトイレを使い

「今度はゾウさん公園まで競争」

と、言ってまた駆け出して行った。

うちは公衆トイレじゃない、と思うのだが、玄関の扉を開けては閉めて、何度か同じ事を繰り返し、夕方にはみんな帰って行った。

家の中の喧噪が拭われ、一気に静寂を取り戻し、役場から流される「赤とんぼ」のメロディーが、もの悲しく聞こえてきた。

「あら、あなたはお家に帰らなかったの?」

話しかけても返事をしない。

梨花が困惑の表情を浮かべる。

「あなたのパパやママ、心配してないかしら?」

なおも執拗に問いかける。

「ママ、この子、チイちゃんって言うんだよ。チイちゃんには、パパもママもいないんだよ」

その日からチイちゃんは家に帰ることなく、我が家の二番目の娘として育った。

チイちゃんがウチの子になって数年の月日が流れた。

最初のうちはミルクしか飲まなかったのだが、最近は何でもよく食べる。

「わあ、きれいに食べたねえ」

チイちゃん専用の皿の上は、舐めるように何も残ってはいなかった。

首筋を撫でてやるとゴロゴロと喉を鳴らした。

「鮎、美味しいよね。でも、みんな川魚は食べないのよ。チイちゃんだけでも食べてくれてよかったわ」

吉野の伯父が、この時期になると毎年送ってくれるのだ。

ああ、もうそんな季節なんだ。

初夏の訪れを告げる魚。

ところが

「骨がある魚は面倒くさい」

などと、主人までが子どもみたいな事を言う。

近所の友だちに貰ってもらうのだけど、それでも余りあることがある。

私以外は誰も食べない、と言いそびれてきてしまっていた。

何だか強い味方が出来たようで、頼もしい。