阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「鮎子」七積ナツミ

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2018.05.09

第38回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「鮎子」七積ナツミ

朝、目が覚めて、寝坊している事に気が付いた。慌てて台所に向かう。

「おはよう!ごめん、ごめん!」

「あ?」

八十八になる祖父は既に朝ご飯を食べていた。昨日のおやつに焼いておいた甘いパンケーキを箸でつまみ、冷えた白いご飯と共に口に運んでいる最中だった。

「あーらぁ……。ごはん食べちゃったか。悪かったねぇ……。……これ、何?」

空になったみそ汁茶碗にうっすら焦げ茶色の残り汁があり、気になって聞いてみる。

「ん、これは、あれだ」

祖父は言いづらそうに、話す。

「お湯入れて、醤油をばーっと入れたやつだ」

「えーーー! みそ汁あるのにーーー!」

大げさに驚くと、祖父は恥ずかしそうに笑う。

「ま、いっか。今日、おじいちゃん、デーサービスだよね。私、昼休みに家に戻って、犬の散歩行っておくからね」

「そうか、無理しなくていいぞ。できたら、な」

「うん、できたらね。なるべく来られるようにするよ」

「そうか、悪いな、頼むな」

慌てて準備をして玄関を飛び出すと、まだ外は薄暗くて霧のように細かい雨が降っていた。

「えーー、まじかぁー! 雨かぁー!」

勢い良く自転車に跨がる。雨対策をしている余裕はない。寝坊して、それでなくても遅刻しそうなのだ。とにかくは、このまま自転車を飛ばすしかない。

ビィーーーーー、ガチャン。5:59。

「間にあった!セーフ!」

ぎりぎりセーフでタイムカードを押し、すぐに厨房に向かう。手ぬぐいを頭に巻いて髪の毛についた水滴を閉じ込める。

手を洗い、まずは二十人分の朝ご飯を作る。施設スタッフ二名と、入居のお年寄り十八名分の朝ご飯だ。スタッフは私と、宿直で泊まっている先輩の関口さん。関口さんは殆ど一年中、この施設に泊まっている。私は家と職場とで毎朝二度、朝ご飯を作っている。

「鮎ちゃん、おはよう、今日も早いね」

「いやぁ、今朝は寝坊しちゃって~。出勤ギリギリでしたよ~」

「えーそうなの。いいよ、時計戻して押してさぁ」

「そういう訳にもいきませんよぉ~! それに、私、遅刻してないです!間にあってるんで!」

「あ、そっか。勤労、勤労!毎朝早くて申し訳ないくらいよ」

「申し訳ない事ないです!こちらこそ、殆ど毎晩宿直して頂いて申し訳ないくらいです」

「私はいいのよ、どうせ家に帰ったって同じようなもんなんだから。じいさんとばあさんに囲まれてさぁ」

「私も同じようなもんです、こちらはじいさんだけですが」

「あんた、若いのにえらいわよ」

「えらいことないです、フツーですフツー」

私が朝食の準備をしている間に関口さんは全ての部屋を回り、朝のお勤めを済ませる。トラブルがなければ一時間位で回れるが、トラブルがない日なんてない。関口さんは丁寧に声を掛けながら、一部屋ずつ、一人ずつを順番に回ってゆく。

関口さんと協力して、みなさんの朝ご飯を済ませた後、掻き込むように自分たちの食事を済ませる。その後、一人ずつの入浴を手伝い、あっと言う間に午前中は過ぎてゆく。

「すみません、犬の散歩、いいですか?」

「おっけー、行っておいでー」

施設のお昼ご飯は配膳センターの人たちが来て整えてくれる。夕飯もその時に置いていくものを夕食時に温めて出す事になる。お昼時間の束の間、私は仕事から解放される。戻ったら、今度は関口さんが解放される番だ。

外はまだ雨が降っていた。自転車を立ち漕ぎで走らせて家に向かう間、細かい雨に打たれて全身がまた、濡れた。

毎日同じ繰り返しである。満足も不満も感じる前に、日が暮れてもう、起きる時間だ。犬の散歩に出る前、鏡を見遣ると、雨に濡れた自分の顔がぬらっと鈍く光って映った。魚みたいな光り方。私は魚である。鮎の子ども。何も考えず、時間の海原に身を委ねている。たまに、これでいいのだろうか、と考えることがある。その考えさえもすぐに海原に飲み込まれてゆく。私に「鮎子」と命名したのは、確か、祖父だ。その年の鮎釣り解禁日が丁度六月一日で、ただそれだけの理由らしい。鏡の隣にあるカレンダーで今日の日付を確認すると、自分の誕生日だと気が付いた。鮎の子は鮎の子らしく、美しく泳ぎたいものだ、とだけ思う。