阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「はきだめ」瀧なつ子

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2018.06.08

第39回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「はきだめ」瀧なつ子

面倒なことになった。

長谷は後輩、北尾の部屋の前で思った。

連日頭痛で欠勤が続いた北尾は、今日は連絡をよこさなかった。

長谷は、心配した上司に言われて彼の部屋まで様子を見に来たのだった。

――まさか死んでたりとか、ないよな。

第一発見者なんて、マジでゴメンだ。

ため息を吐いて、インターホンを押す。

――いいよ、北尾。出ないでくれ。そしたらこのまま帰るから。

人一倍面倒事が嫌いな長谷は、病んでいる後輩と話すのも億劫なのだ。

が、北尾は出だ。

スウェット姿の北尾は、無精ひげにこけた頬。申し分のない病人スタイルだ。

「ああ、長谷さん……。すいません、今日電話しなくて」

「おお。どうしたよ。みんな心配してるよ」

立っているのも辛そうな北尾を見て、中で話を聞くことにした。

部屋は、ずっと閉め切っていたと分かる空気の淀み方だった。

「で、どうしちゃったの。病院行った?」

わざと、ライトに問いかけてみる。

ベッドに座り込んだ北尾は、俯いたまま話し出す。

「俺、家が大変だったって話、しましたよね」

「お、おう」

なんだ、急に・病気の話じゃないのか?

訝しみながらも、思い出した。

北尾は経済的に困窮した家庭で育ったらしい。なんとか進学したものの相当苦労し、家族の確執は今もあるのだという。

「ずっとね、心の奥に押し込めてた気持ちがあったんです。普通に親の金で進学してる奴らとか、許せなかった。今でも俺は奨学金の返済と実家への仕送りできついのに、趣味に金使ってる奴らとか、何なんだって」

げっ、そうだったのか。独身貴族の長谷は、ボーナスで買った四十万の腕時計を北尾に自慢したことを思い出し、焦った。

「でもね、そんな感情持っちゃいけないって、抑えてました。ついこの前までは、自分の感情を正視しないで来たんです。それが」

北尾は身をひねり、枕元にあった一冊の本を手にとった。

「これ、読んだんです。瞑想の本なんですけど」

長谷は北尾から本を受け取る。

彼には、全く興味のない内容だった。

「ちょっとした興味で読んだんですけど、なんか、すごくはまっちゃって……。やり始めると気持ちよくって、脳内麻薬ドバドバ出てる感じなんです」

「へえ」

やばそうな感じが増してきた。どうやって早く切り上げようか、長谷はもじもじし始める。

「瞑想状態になると、きれいな野原にいる感じになるんですけど、ちょうど一週間くらい前に、その野原に掘り起こされた穴を見つけたんですよ。それで、近づいて行ってみたら」

「ちょっと待って。それお前の頭ん中の話?」

長谷はついていけない。北尾は構わず続ける。

「声が聞こえるんですよ。穴の中から。でも、なんて言ってるか聞こえないから、覗き込んだら、そこに落っこちちゃって」

穴? 頭の中の穴に落ちるとは、どういう状態だ?ともかく、北尾が行くべきは精神科だ。

「長谷さん」

北尾は、澱んだ目で長谷を睨んだ。

「そこには、俺がいたんです。たくさん。学費のせいで、修学旅行に行けなかった俺。第一志望を諦めなきゃならなかった俺。それで気づいたんです。ずっと、自分を抑え続けていたことに、やっと。そして、そいつらをそこに落としたのも自分だってことに」

「北尾、病院行こ。俺、どっか探すからさ」

北尾の闇と、部屋の澱んだ空気に押しつぶされそうだった。

「病院……。探してくれます?そうかあ」

よかった、説得に応じる判断力は残っているようだ。

「長谷さん、すみませんけど、ちょっと窓開けてもらえます。全開で」

「そ、そうだな。空気悪いもんな」

長谷は部屋の窓を開けた。

その瞬間、すごい力で北尾がのしかかってきた。

「き、北尾!」

「いいなあ。四十万の腕時計。俺なんか、ボーナス全部実家に送ったっていうのに」

跳ね返そうとするが、病人とは思えない力で押し返される。

視界の先に、暗い道路が霞んだ。