阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「隣の女」西方まぁき

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2018.06.08

第39回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「隣の女」西方まぁき

雨に濡れて様になるのは紫陽花だけだと思っていた。

今日も、彼女は傘をささずに帰って来るのだろうか。

窓辺に座り、色とりどりのネオンがうつる水溜まりを眺めていると、路地裏から疲れたハイヒールの音が聞こえてくる。

ぴちゃん……ぴちゃん……

立ち飲み屋の赤提灯の陰から彼女が姿を現した。

濡れた黒髪が白いブラウスの背中にべっとり貼り付いている。

派手なストライプ柄のミニスカートも赤いハイヒールも似合っているとは思えないが、雨に濡れながらのんびり歩く彼女の姿はなぜか様になっていた。

アパートの入口で二階を見上げる彼女と目が合う前に視線をそらす。

彼女は言葉も交わさぬ「隣人」であり、この先、オレ達の距離が縮まることなどあるはずもない。

ギシ……ギシ……ときしむ階段の音。

鍵穴に鍵を差し込む音。

玄関の扉が開き、バタンと閉まる音。

風呂無しボロアパートの壁は薄く、生活音は筒抜けだ。

脚にべっとり貼り付いたストッキングを脱ぎ捨てる。

ブラウスも、スカートも、下着も脱ぎ、タオルで髪を拭きながら冷蔵庫に向かう。

缶ビールを取り出し、赤いマニキュアが剥げた長い指でプルトップを引く。

プシュッ……。

ビールを飲む度に上下する白い喉。

「フゥ……」と漏れる溜息。

彼女の行動をすべてお見通しなのには訳がある。

柱の横に、小さく空いた壁の穴。

「あれ」を発見したのは一週間ほど前だった。

この部屋の前の住人が置いて行った本箱を大家が撤去した時だ。

大家の独り言によれば、前の住人は滞納した家賃を払うことなく、夜逃げ同然で出て行った。

部屋に残っていたのは古い木製の本箱のみ。

「これだってリサイクルショップに持っていけば幾らかにはなるだろう」

本箱が接していた後ろ側の壁に直径一センチ大の穴が空いていたが、大家は気に留めることなく作業が終わるとそそくさと出て行った。

神様がオレの自制心を試しているのだと思った。

「覗いてはいけない」

そう思えば思うほど好奇心がムクムクと芽生えてくる。

見たい……。

欲望にまかせて、そんな軽率なことをしてはいけない。

警察に捕まったらどうする。

でも、見たい……。

こんなことで一生を棒にふる覚悟があるのか。

迷っていたのは最初の数秒で、その日から「覗き」はオレの日課となった。

 

ある雨の夜、彼女はいつもより遅い時間に帰って来た。

かなり酔っている様子で、ずぶ濡れだった。

たまたま廊下に出ていたオレを見つけて、事もなげに言った。

「ねぇ、ウチ、来ない」

あまりにも唐突ではないか。

オレたちは言葉も交わしたことがないというのに。

茫然と立ち尽くすオレを、今日は一人で寝たくないのと言いながら、オレの首根っこを掴み半ば強引に部屋へ招き入れた。

彼女はいつものように濡れた服を脱ぎ始めた。

慌てて目をそらすと、笑いながら言った。

「いつも見てるじゃない」

気付いていたのか……オレの所業を。

逃げ出そうと玄関に向かうと彼女が叫んだ。

「アンタが隣を住処にしてること、大家に言いつけるよ!」

それは困る。

隣は居心地がいいのだ。

裸になった彼女が敷きっぱなしの万年布団にもぐりこむ。

「おいで」

気だるい眼差しで手招きをする。

「帰り道でシャワーは浴びたから」

そうですか……据え膳食わぬは男の恥。

おずおずと後に続くと、いきなり力任せに抱きしめられた。

酒と雨の匂いで窒息しそうになり、思わず「にゃぁ」と叫び声をあげた。