阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「シルバートレイ」入月景史

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2018.07.09

第40回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「シルバートレイ」入月景史

足腰を鍛える為にも会社までは徒歩で通勤しているのだが、その道中には生きているのか死んでいるのか分からないような店舗が数多く点在しており、その衰弱した姿を見る度に私は勝手ながらネクタイを締め付けられるような哀傷に沈んでしまうのだが、そのような店舗のひとつに「あさがお」という喫茶店らしき建物があった。薄紫色の屋根に丸い文字で名前の記されたその店舗は、ビルとビルの間に立地されているせいかいつも薄闇に沈んでいて、営業しているところなどはただの一度として見たことがなく、仮に営業しているとすれば、私が「あさがお」の前を通るのはいつも朝の8時前と夕方の6時過ぎと決まっているので必然的に昼間の時間帯ということになるのだが、実際のところ私はこの店はもう既に死んでいるものと決め付けていた。なぜかと言えば、「あさがお」には人の気配がまるでなかったから。通常店舗というものは、たとえ閉店後の時間帯であっても人の気配が僅かにでも残っているものであり、それがある種の儚さを醸し出すから生きていると分かるもの。しかし「あさがお」にはその気配がまるでなかった。だから死んでいるものと決めつけていたのだ。

しかし、ある日いつものように仕事を終えて「あさがお」の前を通ると当然のように明かりが点いていた。ご丁寧にも入口横にはメニュー表と思われるブラックボードまで立て掛けられていて、もはやその様相は営業中以外の何ものでもなく、私は思わず立ち止まってしばらく店の様子を見やった。白いカーテンが閉まっているせいで窓から中の様子は窺えないが、時折人影のようなものが動いているのが分かる。一体どんな人物が働いているのだろうか。尚も立ち止まって眺めていると、ふいに道行く人々の視線が気になった。さて、どうしたものか。このまま真っ直ぐ帰宅したところで出迎えてくれる妻がいる訳でもない。たとえ注文がコーヒー一杯だけだったとしてもまさか嫌な顔をされるということはないだろう。すみやかにネクタイを緩めた私は、ひとり入店を決意した。

扉を開けると山吹色の照明に満ちたレトロな雰囲気の内装が広がり、客の姿は他に見えず、すぐさま白いワイシャツに薄紅色のラップエプロンを着用した若い女の従業員が私を出迎えてくれた。「いらっしゃいませ。お先にお支払いのほうよろしいですか?」お支払い? と疑問に思う間もなく私は女の百点満点の笑顔に打ちのめされ、気付けば財布から千円札を一枚取り出していた。「お客様、千円でよろしいですか?」よろしいですか? の問い掛けに疑問を抱く間もなく私は女のワイシャツのボタンを今にも弾き飛ばしそうな豊満なバストに目を奪われ、気付けば立て続けに二、三度額いていた。金を渡し、案内された席に腰を下ろして物を置くと、テーブルの上にメニューも何も置かれていないことに気が付いた。先程の百点満点の女が持って来てくれるのだろうか。特に気にすることもなく待ちぼうけていると、おそらく厨房と繋がっているのであろう間仕切り暖簾の垂れた出入口から先程の女が出てきた。その両手にはピカピカのシルバートレイが抱え込むようにして持たれており、しかしどうやら持っているのはそれだけらしく、メニューらしき物はどこにも見当たらなかった。「お待たせ致しました」女はトレイを抱えたまま私に微笑みかけた。一体私は何を待たされたというのか。何の反応も出来ずにただ目の前の笑顔を眺めていると、女は自らの頭上におもむろにトレイを掲げた。瞬間、そのトレイが私の脳天めがけて凄まじい勢いで振り下ろされ、鋭い衝突音と共に強烈な衝撃が脳髄を駆け抜けた。あまりに突然過ぎる真っ向からの暴力を受けた私は無残にも地べたに崩れ落ち、歪んでいく意識の中に激しい痛みを感じた直後、今度は背中に同様の衝撃が走り、立て続けに警部、足、臀部、臀部、背中、臀部に同様の衝撃が走った。「千円って何だよ千円って! この ポンコツ貧乏サラリーマンが!」命の危険を感じた私は火事場の馬鹿力を発揮して女を突き飛ばし、高速に這いずる形で店の外へと避難した。「くっ……」足腰に力を入れてどうにか立ち上がると、入口横のブラックボードに視界を犯された。

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何ということだろう……。そういえば私は店内に鞄を置き忘れてきている。それから私の財布には少なくとも二枚の万札が入っているはずだ。それらを思うと急に下半身が熱くなった。そう、私の股間のジャンボジェットが離陸の準備を開始したのだ。