阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「暦を売る者」文月めぐ

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2018.12.07

第45回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「暦を売る者」文月めぐ

寒い。寒すぎる。もう三月だって言うのに、今日は雪がぼたぼたと落ちてきている。私は思わずマフラーをきつく巻き直した。そうしたってヒールを履いた足元からの寒さはふさぎきれない。

アーケードのある商店街に足を踏み入れ息をつくと、傘に積もっていた雪が滑り落ちた。今日はこれからバスに乗って住宅街に向かい、市川さんと二葉さんのお宅に訪問しなければならない。雪でバスが遅れるだろう。急がないと約束の時間に間に合わないかもしれない。アーケード街を抜けて、バス停に向かおうと一歩踏み出した時、「そこのお姉さん」という声が聞こえた気がした。私を呼んだのか、それとも別の人を呼んだのか。振り向くと折りたたみ式の椅子に座った、同い年くらいの若い男がこちらを見てにこにこと笑っている。

振り向くんじゃなかった。

絵描きなのだろうか。小さなキャンバスに描かれた絵を自分の周りに広げ、それを売っているようだ。「似顔絵描きます」という看板も掲げられている。

「そうそう、そこのお姉さん。良かったら俺の絵を見ていかない?」

周囲には、私以外の人もいるのに、何故だかスーツ姿で急いでいる私に声をかけてきた不審な男。もちろん、今の私に彼をかまっている余裕などない。止めてしまった足を再び動かす。のんびりと絵を売っているあなたとは違って、営業の私は忙しいのだ、ということを見せつけるため、颯爽と足を動かした。

 

今日の仕事はうまくいかなかった。私の提案の仕方が悪かったのだろう。市川さんも二葉さんも結局、他社の生命保険に加入する、という決断を下した。これで今月の見込み客はゼロになってしまった。また私が成績最下位になるのだ――。入社してそろそろ一年。来月には新入社員も入ってくるというのに、このままで大丈夫なのだろうか。岩滝さん、もうちょっと頑張ってちょうだい、という課長の呆れた声が今にも聞こえてきそうだ。

「あ、昼間のお姉さん」

ぼんやりと歩いていたから、絵描きの存在に気付かなかった。この人、こんなに寒いのにまだいたんだ。なんで私にいちいち声をかけてくるんだろう、と少しいら立った。

「なんか暗い顔してたから気になってたんだ」

相変わらず表情硬いなあ、とぼやく彼に向かって、私は思わずきつい声を上げてしまった。

「あなたみたいに楽な仕事じゃないから」

しまった、と思った時には遅かった。彼はちょっとだけ目を見開き、傷ついたように眉を下げたが、何故だかにっこりと微笑んだ。

「それだけ強気なら大丈夫そうだね」

心配して声かけたのに、損したなあ、とぼやいている。朝出会った時から彼は私のことを気遣ってくれていたんだ、と今更わかった。

「あ、あの……どんな絵を描いてるんですか?」

気まずくなって、辺りに視線をやると、色鉛筆や透明水彩で描かれたイラストが並べられている。あ、この絵の雰囲気好きかも、と思った。

「そうだお姉さん。このカレンダー、良かったらもらってくれない?」

そう言って彼はハガキぐらいのサイズの紙の束を渡してきた。これ、売れ残っちゃって困ってたんだ、と苦笑いしながら頭の後ろを掻いている。確かに三月ももう終わるという頃にカレンダーを買う人はあまりいないだろう。一人暮らしの私の部屋には、カレンダーは飾られていない。すべて手帳で済ませてしまうからだ。カレンダーを置くのも良いかもしれない、とふと思った。

ぱらぱらとめくって三月のページまでたどり着くと、黄色く温かいものが目に飛び込んできた。色鉛筆で描かれたタンポポのイラストだ。そうか、明日は春分の日。暦の上ではもう春になるのだ。

「タンポポって、冬には葉っぱを地面に張り付けているじゃないですか。あれって、冷たい風を受けないようにしてるらしいですけど、春には元気に花を咲かせますよね。なんか、人間も同じだなって思うんですよ」

さっきまでのなれなれしい雰囲気ではなく、神妙な声でしゃべる絵描き。彼の温かい絵とちょっとした優しさに触れて、私もなんだか元気になれるようだった。たくさん踏まれても起き上がるタンポポのように、私も何度でも這い上がれるだろうか。

「これ、素敵ですね。買わせてください!」

私はそう言って、鞄から財布を取り出した。

寒かった冬ももうすぐ通り過ぎていく。それと同時に聞こえてくるのは、軽やかな春の足音だ。