阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「最高のソース」石黒みなみ

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2019.03.08

第48回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「最高のソース」石黒みなみ

出勤前、鞄に弁当を入れている私に、妻が言った。

「ねえ、エビフライとカニクリームコロッケ、どっちがいい?」

嬉しさのあまり返事に詰まった。どちらも大好きだが、しばらくお目にかかっていない。

一年前に会社の健康診断でひっかかった。「メタボ」だの「ふとりすぎ」(なぜか、ひらがなだ)だのとありがたくないコメントも書かれ、酒をやめ食生活を改善するように指導された。まだ深刻な病名がついたわけでもないので、適当に流しておけばいいと思っていたのに、妻は「だから言ったじゃない。定年までまだ五年もあるのよ」と言い、徹底した食生活の管理に乗り出したのだ。

初めは家での食事だけ薄味にし、油ものをやめるというやり方だったので、昼に会社の食堂で息抜きをしていた。近くに外食できるようなところがないので、食堂は充実している。セレクトメニュー方式で、主菜、副菜、汁物、どれも二種類から選べる。煮魚や焼き魚ではなく、唐揚げやトンカツのほうがどう見ても魅力的ではないか。ところが私としたことが、うっかり夕食時に「今日のトンカツは揚げ具合がよかったんだ」と洩らし、ばれてしまった。以来、昼は恐妻弁当だ。

朝も昼も夜も、楽しみというものが全くないのだ。それが、晩ご飯のリクエストを聞かれるなんて久しぶりではないか。

そういえばこのあいだの検診で、全体に数値がよくなっていた。実は本格的にひっかかるまで、検診の結果はいつも、子どもの時の通知表よろしく妻には隠してきたのだ。今回はもらったその日にキッチンのカウンターにちゃんと広げて出した。妻は大喜びしたわけではなかったが、「よしよし」とつぶやいていた。きっとがんばってきたご褒美だ。思わず口元がゆるむ。

「それは悩ましいなあ。どっちがいいかなあ」

時間がないので靴をはきながら考える。カニクリームコロッケは好きだが、妻のことだ、本物ではなく、カニそっくりのかまぼこを使う可能性がある。エビなら、エビそっくりだが実はかまぼこだとかちくわだとかいう商品は聞いたことがない。それを思うとエビフライのほうがいいかもしれない。いや、待て。とろとろのクリームも捨てがたい。ああ、時間がない。昨日の晩に聞いてくれたらよかったのに。

「どっちでもいいよ。どっちも素晴らしい」

へえ、そーお?と言っている妻に、私はじゃあ、行ってきます、とはずんだ声で言い、家を出た。

朝から気持ちよく働けた。何といってもエビフライかカニクリームコロッケのどちらかが待っているのだ。

昼時になった。いつもは憂鬱だ。同僚が食堂でトンカツだとかカレーだとか食べている間に、鰯団子を薄味に煮たのや、高野豆腐の入った弁当をぼそぼそと食べるのだ。しかし、おいしい夕食が待っていると思えば何のそのだ。

弁当箱を開けた。やっぱり今日も鰯団子だ。ほうれん草の胡麻和え、ごぼうとにんじんのきんぴら、と色どりはきれいだが、揚げ物に比べるとはるかにテンションが落ちる。せめて塩鮭にしてくれないか。しかし、何といっても今夜はエビフライかカニクリームコロッケだ。嫌いな鰯団子もほうれん草も、ぐずぐずせずに平らげてしまった。

昼からも誰に会っても思わずニコニコしてしまい、「何かいいことでもあったんですか」と何度も聞かれた。三時ごろになると、いつもは口が淋しくなって机の引き出しに忍ばせている小さいチョコレートを口に入れるのだが、これは我慢した。

仕事を終え、駅に向かう足取りも軽い。駅前の饅頭屋の前で思わず立ち止まる。実はいつもは妻に内緒で饅頭かみたらし団子を買い、ベンチで食べている。しかし、何といっても今日はエビフライかカニクリームコロッケかどちらかだ。白ワインがグラス一杯でもあれば最高だとか、エビフライだったらタルタルソースでなけりゃなんて贅沢なことは言わない。空腹は最高のソースだ。私は甘く香ばしいみたらし団子のたれが焼けていく匂いや、酒まんじゅうが湯気をたてて蒸しあがっていくところを我慢して早足で通り抜けた。

「ただいまー」

元気よく玄関のドアを開け、すぐキッチンに行った。

「どうしたの、えらくご機嫌ね」

という妻は珍しくテレビを見ている。画面には「一流シェフ対決・エビフライvsカニクリームコロッケ」の文字が躍っていた。ガスコンロの上の鍋をのぞくと、弁当に入っていた鰯団子が白菜と一緒にスープになっていた。