阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「鴉」鎌田伸弘

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2019.05.09

第50回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「鴉」鎌田伸弘

帰ってゆく男と入れ違いに別の男が入ってきた。その男はそこ――おれの左どなり――に立った。その新しい男はどこか異様な雰囲気を漂わせていた。黒眼鏡をかけ、八月だというのに黒の背広を着込み、黒い傘をステッキがわりに持って、文字どおり蝙蝠か鴉のようにおれの前にあらわれたのだった。眼鏡の奥の眼を見ることはできないが、いっけんしてすぐに酔っているのがわかった。紳士然とした態度で理性を保っているものの、かなり酩酊しているふうで、確実に酔いの粘膜を全身にからみつかせていた。男は左手をかるくあげておかみを呼び、そっと耳打ちするように「電気ブラン」といった。

こんな立ち呑みの店にそんなものが置いてあるのかと耳を疑ったが、男の酒は出てきた。琥珀いろした液体の入った壜を手におかみが黒メガネのカラスの男のまえに立ち、飲みきりのちいさなグラスに、中の液体をゆっくりと注いでゆく。それはおかみの肌のいろにちかい。男はそれを舐めるように少量ずつ、しかしほとんど間をおかずに飲む。グラスになみなみと注がれた液体に口を寄せてすするさまは、まさに甕に残った水にくちばしを突っこむ鴉そのものだ。そのようすをぬすみ見しているうち、おれもそいつが飲みたくなった。

電気ブランといえば浅草の神谷バーである。おれもなんどか行き、のんだ。通はチェーサーがわりに中ジョッキをいっしょにたのむと、相席になった年配の男から聞いて、そのように飲んだりもした。とてもカタギには見えなかったが、いかにもアナクロで、人懐っこい男だった。あの店には観光客にまじってそんな雰囲気の男たちがいっぱいいた。おれのとなりのカラスの男も、いかにもそこにいそうなタイプである。あるいはじっさい居あわせたことだってあったかもしれない。六十代だろうか、七十代だろうか。いずれにせよ他界したおれの親父もまだ生きていたら、このカラス男とおなじくらいだろう。そういえばちょっと親父に似ていなくもない。ふいに生前、親父と酒を飲んだときのことをおもいだした。

カラスはグラスに残った電気ブランをぐいとあおって、おかみにおかわりを命じた。それからやおらカウンターを離れ、ふらふらとトイレに向かった。カウンターのそこだけがぽっかりと穴があいたようになった。その穴を埋めるようにすぐにおかみが堂々たる体躯で立ちはだかる。手には自分の肌とおなじ色の壜をわし掴みにして、飲み手不在の空のグラスに琥珀いろの酒を注ぐ。その、砂時計が満ちてゆくおわりころのようなようすをみつめながら、もはやあの男は二度とここに戻ってこない気になった。おれの親父のように。

しかしカラスは戻ってきた。なぜかおれはホッとした。その気持ちが通じたわけではないだろうが、行きに蹌踉としていた足どりは、帰ってくるときにはかるく、ほとんど踊っているようだった。線路のうえなどをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる鴉の姿をみたことがあるが、まさにそんな感じだった。顔いろもさっきよりあきらかによくなっていた。トイレに行き、なん歳か若返ったようだった。トイレでなにかあったのか。それはあたかもこの呑み屋の空間において、時間が逆戻りしたような錯覚を起こさせ、おれはこの眼のまえの男を以前から知っているような感覚にとらわれた。そしてふたたび親父と酒を酌み交わしている気になった。

カラスがまた手をあげた。「おかわりを」

そしてグラスの酒をまたも飲み干し、カウンターを離れた。またトイレだ。さっき行って五分とたっていないのではないか。またしてもぽっかりと穴があいたようになった。おかみがすぐに立ちはだかる。赤銅いろの手で琥珀いろの酒をカラスのグラスに注ぐ。砂時計が速度を増して落ちてゆく――。

カラスはまた戻ってきた。おれの左どなりに。驚いたことに、またさらになん歳か若返ったようだ。わずかな時間でしかなかったから、トイレでなにができるわけでもないはずだ。それにしてもこの男はいったいなにものなんだろうか。あるいはおれが相当に酔っていて、まともに他人をみることができなくなっているのか。もしかしたらカラスなんて男ははじめからおらず、おれは幻影をみているのか。おれこそトイレに行くべきなのか。トイレに行ってつめたい水で顔を洗って、しっかり鏡に自分――、ん?そうだ。おもいだした。あの日、親父と飲んだ最初で最後の日、親父はいった。酒を飲むときはひんぱんにトイレに行けと。尿意をもよおさずとも洗面所に立ち、自分の顔を鏡にうつし、どれだけ酔っているのか、いないのかを確かめるのだと。永く営業マンとして外回りに従事してきた親父なりの酒の哲学だったのだろう。よし、おれもトイレに行こう。そうおもったとき、またカラスがカウンターを離れた。そこだけ空気がうごいた。――と、その瞬間、バサバサッと大鴉が羽撃く音がきこえたようだった。