阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「マリッジブルー」川上さとる

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2019.05.09

第50回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「マリッジブルー」川上さとる

「ここで新郎と新婦はお色直しのため一旦、退席させていただきます。皆さまはこのままご歓談ください」

司会者の声に送られて、遠山は美咲と腕を組み笑顔で披露宴会場を後にした。

お色直しといっても遠山はネクタイを変えるだけだった。ウェディングドレスから赤のドレスに着替えている美咲に声をかけ、遠山はひとりトイレに向かった。皆がビールを入れ替わり立ち替わり注ぎに来るものだから、腹の調子を崩してしまったのだ。

「やれやれ、参った」

トイレの一番奥の空いた個室に腰を下ろし遠山はつぶやいた。

「まさか課長を呼ぶとはな」

「まあ上司だし、呼ばないわけにはいかなかったんだろ」

ドアが開き、男たちの話し声がした。声の様子から、後輩の村田と清水のようだ。

「彼女は寿退社するからいいけど、可愛そうなのは遠山さんだよな」村田が言った。

こいつらは何を言ってるんだ。遠山は耳をそばだてた。

「あの課長の下でしばらくやらなきゃいけないんだもんな」

清水が続ける。

「二人が不倫してたことは営業三課みんな知ってるしな」

「遠山さんは本当に何も知らないのかな」

「知らないんだろ。こんなこと周りの誰も言えないだろうし」清水が気の毒そうに言うと

「知らぬは新郎ばかりなり、か」村田がぼそりと呟いた。

「おい、こんな話してて、もし新郎の親族でも入って来たらいけないし早く行こうぜ」

「そうだな、そろそろ新郎新婦もお色直しから戻ってくるだろうし」

二人の足音が遠ざかりドアが閉まるとトイレは再び静寂に包まれた。

どういうことなんだ。遠山は混乱する頭を掻きむしった。美咲と課長が不倫していたというのは本当なのか。周りは皆知っていて、何も知らなかったのは俺だけだったのか。そんな馬鹿にした話があるか。

ドアの開く音がして足音が近づいてきた。

「遠山様、そろそろ入場のお時間ですが」個室のドアの外からスタッフの牧野の遠慮がちな声がした。

「体調でも悪くされましたか、大丈夫ですか」

「ええ、まあ」脂汗をハンカチで押さえながら遠山は声を絞り出す。

「新婦の支度はもう整いましたが」

「もう美咲の顔なんか見たくない」

「なにかあったんですか」牧野は戸惑いを隠せない様子だ。

「あいつは今日、来ている主賓の課長とできてたんだ」牧野は息を?んだ。

「それを知らないのはどうやら俺だけだったらしい。さっきトイレに後輩たちが入ってきて喋っていたんだ」

「まさかそんなことが……」

「まったくとんだ道化だよ、内心、みんなして俺のことを笑ってたんだ。もうそんなところに戻りたくない」

「でも……」

勢いよくノックの音がした。

「牧野君、遠山様の様子はどうなの。もう時間がだいぶ押してるのよ。今どうなってるのよ」ベテランスタッフの藤岡尚美だった。

「藤岡さん、それがちょっと困ったことになりまして……」

「とにかくそこにいらっしゃるのね、開けるわよ」

ドアが開き尚美の声が近づいてきた。

「遠山様いかがいたしましたか、新婦がお待ちですが」

「待たせておけばいいだろう、俺は戻らない」遠山が吐き捨てた。

「ちょっと牧野君、どうなってるのよ」尚美が小声で尋ねた。

「実は主賓の課長さんと新婦が不倫されていてトイレに入ってきたお客さんが話しているのをさっき聞いちゃったみたいなんです」

「あら」

「新郎は何も知らなかったそうで」牧野の同情を含んだ声が聞こえる。

「みんな俺のことを笑っていたなんて。これからどんな顔をして職場で働いたらいいんだ。美咲は何を考えてるんだ。もう放っておいてくれないか」

「みんなそんな暇じゃないですよ、いつまでも人の噂なんかに構っていられないです」尚美が言った。

「え」遠山は面食らった。

「それでも、もし周りから何か言われたら、奥様を幸せにできるのは自分しかいないからプロポーズしたと言えばいいんです」

遠山は鼻をすすった。

「これまで通りに過ごされたらいいじゃないですか。結局、奥様が選んだのは遠山様、あなたなんですから。自信を持って」尚美が続けると

「分かった、戻るよ、迷惑かけたね」

遠山がドアを開けて静かに言った。