阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「キリンとマルボロメンソールライト」野上

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2019.06.07

第51回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「キリンとマルボロメンソールライト」野上

そのときは色々うまくいっていなくて。自分なにしているんだろうって。横になっていても涙が流れてくる始末。横で眠る恋人とも、なんとなくいつか終わるのかと思ったら、比喩ではなく本当に胸が苦しくなって、ああやばいなって思った。そうしたら急に、ある小説の一場面が浮かんだ。

夜の店で働く母親が、のちに成人して家を出た主人公の女の子と一緒にお酒を飲むシーン。思春期もあり溝や距離が出来ていたけれど、お酒を介して、知らなかった母親の事情や強さが少しずつ染み入っていく――

その風景が色味のようにぶわっと内側に広がって、急に、強烈に母親が恋しくなった。不覚にもまた込み上げる。甘える年下の恋人を背中であやしながら、悟られぬよう静かに泣いた。

 

母親は奈津子が六才の頃蒸発して、それなりに傷ついて育った。そして事情とやらに巻き込まれて二十代前半の頃に一度会うことになるが、こちらは理由がなければ会わなかったということを態度で示した。母親と名乗るその人は別れ際に、一万円札を二枚とメモを握らせた。正直、若い自分はいつも金欠で、そのお金はありがたかった。

 

背中で恋人をもう一度寝かしつけたあと、奈津子は衝動的にスマホの電話帳を開く。――あった。「秋子さん」、母親の番号だ。

背中の恋人の温もり、涙、小説の風景、涙、涙。ああ、私は今とにかく甘えたいんだと理解した。正直驚いた。それなりに自立したいい歳の自分が、ほとんど会ったことのない母親を今更に恋しがるだなんて。

渡された番号を一応残しておいた若き日の自分を思う。いじらしい。また込み上げて、本当にどうしようもないと思う。

 

「いらっしゃ……あら、まぁまぁ!」

薄暗い店内から、秋子さん、もとい母親が私を見るなり声を上げる。

あれから早かった。一度きり会ってからさらに十年程経っていたのに、奈津子はなんの躊躇もなく母親に電話をかけた。当時スナックで働いていると言っていたので、今もそうだろうと察しをつけた。母親は驚きつつも嬉々として、これまた躊躇なく奈津子を店に呼んだ。母親はあのときより小さくしぼんで見えた。奈津子の胸は躍る。このしぼんだ母に甘えるのだろうか。母親の事情とやらが今更に染みてきたりするのだろうか。あの小説みたいに。

「……お久しぶりです」

「座って、ほらここ。座ってぇ」

なっちゃん、元気だったあ。癖のある話し方に懐かしさを覚える。そうだ、この人はときどき変に語尾を伸ばすのだった。

奥でグラスを拭いていた若い女の子がぺこっと頭を下げる。かわいい。お金を貯めたい事情があるのだろうか。どこか心許ないその若さに、抱擁に似た気持ちを抱く。そうだ、私は大人なのだ。いい大人が母親に甘えに酒を飲みに来ている。

「久しぶりねえ、よく来てくれたわあ。ビールでいーい?」

「あ、はい」

「やあねえ、なっちゃん。普通に話してえ」

ビールを用意する母親の指先はきらきらと赤い。リップも赤い。傷んだ髪と胸元の空いたシャツは、五十代の女を容赦なく下品に見せる。

「いろいろあったのよ」

五十代の下品な女は、目の前の三十代の娘より先に自分の事情を話し出す。

お父さんが庇ってくれなかったの、相談できる人もいなくて、なっちゃんのこと一度だって忘れたことないわ、女が一人で生きていくのは大変、なっちゃん恋人は? 結婚は?

店内は籠っていて、頭がぼーっとした。伸びていく語尾だけが耳に残る。回転しない頭で「へぇ」とか「はい」とか適当に返事していたと思う。

「なっちゃんがねえ、いつか来てくれるって。首を長ーくして待っていたの」

キリンみたいに、と笑った後「タバコ取ってくれる? 緑のマルボロ」とカウンター端にいくつか置かれたタバコを指さす。きらきらと赤い指先と手の甲のシワがアンバランスで、脳裏に焼き付く。

「これ?」それらしき箱を渡そうとすると、「ううん、そっちじゃなくてねえ、ライト。わたしライトしか吸えないの」得意げなその顔は、なんだかやたらに軽かった。

 

自分なにしてるんだろう。店を出た私は酔いのせいかひとり笑えてきた。会計はいらないと言われたが、一万円札を二枚置いてきた。

少し飲み足りなくて、もう一軒いくことにした。恋人も来るとのことだった。