阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「キリンの目」かく芙蓉

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2019.06.07

第51回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「キリンの目」かく芙蓉

ある朝、いつものように動物園でキリンを撮影していると、キリンの目玉がボロンと落ち、コロコロと私の足元に転がった。私は仰天して、それを拾い上げる。黒くしっとりと濡れた、まぎれもないキリンの目玉だ。目玉が落ちた方のキリンのまぶたは、いびつにへこんでいる。

辺りを見回したが、周囲に人はいない。

とりあえず、早くキリンに目玉を返さないと……。そう思っていると、なんともう片方の目玉もボロリと落ち、こちらも私の足元に転がってきた。

どうしたものだろう。私は途方に暮れる。

その時、清掃用具を持った飼育員が、通りかかった。思わず呼び止める。

「ちょっと、君! キリンの目玉が……」

飼育員は、私の両掌にあるキリンの目玉を見て、「ああ」と小さくつぶやいた。

「捨てましょうか?」

飼育員はこともなげに言う。

「キリンに目玉を返さないと。あのキリンは大丈夫なのですか」

「お客さん、心配しなくていいですよ。またそのうち、生えてきますから」

飼育員は微笑んでそう言うと、足早に去っていった。

キリンの目玉というものは、生えてくるものなのだろうか。でも、毎日動物の世話をしている飼育員がそう言うのなら、そうなのかもしれない。

目玉を大切にハンカチに包み、家に持って帰ってきた。ところが、どう保存したものなのだろう。動物学者をしている友人が、標本をホルマリン漬けにすると言っていたのを思い出し、透明なグラスにキリンの目玉を二つ入れ、ホルマリンに浸した。

私は、長年しがない動物カメラマンをしているが、こんな経験は始めてだ。あのキリンは私にとって特別で、取材の用事がなくても、撮影に訪れていた。引き締まった体に、均等な茶色の斑、スッと伸びた首。とりわけ、私が心惹かれたのは、その目だった。黒く潤み、つややかで、優しく儚い。そしてその目を覆う、長く繊細な漆黒のまつ毛。キリンの全てが、魅力的だった。私は、毎日の記録として、写真におさめている。

しかし、これからは目の見えないキリンを撮影するのも気がひける。思案していると、ホルマリンの中のキリンの目が、くるりとこちらを見た。まるで、私に何か伝えたいことがあるかのようだ。

にわかに、私はキリンの見ている世界を見てみたいと思った。毎日、どんな景色を、この美しい目で見ていたのだろう。

私はキリンの目を、グラスから取り出し、まじまじと眺めた。ホルマリンに浸したのが良かったのか、光り輝いている。

「君の世界を見せてくれ」

私は自分の両目を取り外すと、キリンの目玉をそこに押しこんだ。最初はサイズが合わなかったが、格闘しているうちに、私のまぶたにキリンの目玉はすっぽりと収まった。

そのうちに、私は自宅にいるはずなのに、キリンになって、キリンが見ている世界を眺めていた。頭上のすぐそばを飛ぶ小鳥、近くに感じられる、空と雲。目の前には、かぐわしい花々を咲かせた木もあった。

「すばらしい。キリンの目に映る世界が、こんなにも美しいとは」

すると、何やら下方がさわがしい。そちらを向くと、自分に好奇の目を向ける群衆の姿があった。群衆はすぐに立ち去ったが、とりわけ醜い中年の男が、一人残っている。ボサボサの髪に、くたびれた服。その男は、カメラを構え、舌なめずりをして、下卑た目つきで私を眺めているのだ。

ああ、あの醜い男は私だ。

キリンは、私の醜い視線に耐えられず、目玉を落としたのか。

私は、キリンの目玉を取り外した。そして、静かにホルマリンの中に戻した。

私は、それから数日は動物園に行かなかった。しかし、キリンの目玉は次第に朽ちていき、ホルマリンの中で、塵のようになってしまった。私はキリンが心配になった。目玉が死んだ。あのキリンはどうなるのだろう。

私は、また動物園を訪れた。キリンは何事もなかったかのように、黒い瞳をそのまぶたにたたえ、のん気に餌を食べている。

「この間のお客さん? ほら、キリンの目は元に戻りましたよ」

飼育員が笑顔で、私に教えてくれた。

そうか、キリンの目はまた生えてきたのか。私は安心した。

またいつか、キリンの目玉が落ちることがあれば、その時は私の目玉を入れてあげよう。そうすればキリンは、自分の姿の美しさに、気づくことができるに違いないのだから。