阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「キリンからの卒業」吉岡幸一

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2019.06.07

第51回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「キリンからの卒業」吉岡幸一

男はボーナスのすべてをはたいて買った指輪をジャケットの内ポケットにしのばせていた。これからこの動物園でプロポーズをするつもりでいる。キリンの柵の前で指輪をわたそうと考えたのは、女がキリン好きという理由からだけでなく、ちょうどこの日が女の二十九回目の誕生日でもあって、女からキリンを見にいきたいと誘われたからだった。

さいわいこの日は梅雨の晴れ間で動物を見てまわるのにはよい天気であったし、傘のような荷物もなく指輪も渡しやすかった。

さまざまな動物を見ながらキリンの前まできた男は緊張していた。キリンの前にくるまでどんな動物を見てきたのか覚えてもいなかった。

柵のなかではキリンが二頭、ゆったりとした動きで歩いている。柵とキリンのいる場所の間には堀があり見学者と隔てられていた。

「ああ、キリンにさわりたいのに」

女はもどかしそうに言いながら、キリンを夢中になってみている。

男はポケットの中に手を入れて渡すタイミングを見計らっているが、なかなか渡すことができない。

「お誕生日おめでとう。もう付き合い始めて一年になるね」

「ありがとう」と、女は言ってわずかに男に微笑むがすぐにキリンのほうを向いてしまう。「キリンはね、だいたい四種類に分類されるのよ。キタ、マサイ、アミメ、ミナミの四つにね。で、ここにいるのはアミメキリンなの。アミメ模様がはっきりしているのが特徴よ。国内で一番多く飼育されているんだよ」

女が楽しそうに話すのを男は興味があるようなふりをして聞いている。

「どうしてそんなにキリンに興味があるの。かわいいとは思うけど」

「それはキリンがこんなにも大きな体をしているのに、すごく臆病だからかな。大きな音がしたらびっくりして転んでしまうこともあるんだって。それで内臓破裂で死んでしまうこともあるそうなの。臆病だからあまり寝ないし、水もあまり飲まないみたい。無防備なときに襲われたらって考えたら、おちおち寝てもいられないのかな」

「体が大きいのに臆病な性格というギャップが魅力なの」

「そうそう、そういうことよ」

女は言いたいことをわかってくれたことが嬉しいようだった。

付き合いはじめたきっかけははっきりしない。女が同じ会社のひとつ上の先輩で、男のことをよく面倒をみてくれていたので、次第に惹かれあい交際に発展していったとしか言いようがない。ただ告白は女のほうからだった。男が慎重なうえに行動的でないことを知っていたから、待っていたらいつまで経っても先に進めないと考えたのだろう。

男の身長は百八十センチ、つまり大きい。性格はキリンのように臆病で慎重だ。寝坊をして仕事に遅刻することを恐れるあまり寝不足になってしまうほどだ。

つまりキリンそっくりの特徴を兼ね備えているから男が好きというわけだろうか。

ポケットの内側で指輪のケースを握っていた男の手がそっとはなれた。男はキリンのように臆病な自分の性格が嫌いだったのだ。

「ねえ、どうしてキリンの首はあんなに長いのかな」

唐突に女が聞いてきた。

「たかいところの葉っぱを食べるためだよ。それくらいはぼくだって知っているよ」

「残念、不正解です。首を長くしてあることを待っているからなの。ずっと待っているうちに首が伸びてしまったのよ」

女は歯に物が詰まったような言い方をした。

男が言葉の意味を探ろうと頭をひねっていると、雨がぽつぽつと落ちてきた。頬がぬれたが、傘が必要なほどではなかった。

柵のむこうのキリンは雨を気にするでもなく、しっぽをゆらしながら一列にならんでゆっくりと歩いている。右の前脚と後ろ脚を同時にだし、つぎに左の前足と後ろ脚をだしながら進む姿はどこか気品があり、ユーモラスでもある。ふたりの男女のことなど気にする様子もないキリンは、すぐ近くにいながらもどこか別世界にいるようであった。

「体が大きいくせに臆病な性格かもしれないけど、ぼくはキリンじゃないから。たとえキリンのような性格の男が好きだとしても、そんな性格のままでいつまでもいたくないんだ」

男が絞りだすように言うと、女はじっと目を見つめてうなずいた。

男は手を震わせながらも、勇気をふりしぼってポケットから指輪を取りだした。

「結婚してください。キリンではないぼくと」

女は愛しむように微笑むと、首を縮める素振りをしてみせて指輪を受け取った。

柵の奥では二頭のキリンが首をからめあいはじめていた。