阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「キリンのセーター」藤村綾

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2019.06.07

第51回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「キリンのセーター」藤村綾

日が長くなったと感じるのは気のせいではない。目には見えないけれど刻々と春がちかづいている。目に見えない代わりに身体で体感をして空気の雰囲気で感じそうして着るものでも感じる。この一週間で分厚いセーターを着るのをやめた。今年買った安物のピンクのアクリル製。気に入るとそればっかり着てしまう。けれど、それはあたしだけではない。なおちゃんもまたこの何十年と着ている黒色のセーターがある。

「別にいいでしょ。だってまだ着れるし」

なおちゃんは毎日作業着の下に着ているので、たまには洗いたいの。だから脱いでいって、と、お願いをしても、わかったよ、とだけいい加減な口調でいい、結局着たまま会社に行ってしまう。

「きたきり雀? 俺?」

「うん、まあ、そうね」あたしたちは週に三度はこの会話をする。それでも飽きないのはあたしはあきれるほど彼を心から愛しているからだ。

結婚をして十二年。大きな喧嘩もしたこともなく毎日、凡庸に慎ましく暮らしている。なおちゃんのてのひらが好きだ。優しいてのひらによってあたしは急におとなしくなる。借りてきた猫のように。今日もまた作業日の下に例のセーターを着ていってしまった。明日は土曜日で仕事がお休みなのでバレないように洗ってしまおうと心に誓う。

今夜は鶏の照り焼きとオニオンスープにした。照り焼きは簡単だし美味しい。夕方六時半。まだおもては薄ら明るい。昼間の気配を残しつつ消えゆく明りはなんだかとても憂鬱になる。黄昏時。ふと、そんな言葉を思い出す。照り焼きは簡単に出来たので、テーブルの椅子をガガガと引いて文庫本を開く。お金にまつわる小説。あたしは小説を読んでいるとすぐその主人公になりきってしまう。

なおちゃんは午後八時過ぎ。夜気をまとって帰ってきた。ただいま、とはいわない。その代わり、いい匂い、とだけいう。そうしてあたしの頭を撫ぜる。いい子にしてたかな? そんな風に。優しく撫ぜる。うん、あたしはたちまちおとなしい猫になる。この人はなにか魔法を持っているのかもしれない。女をおとなしくさせる魔法を。

「鶏の照り焼きなの。今夜は」

「いいね」

短くこたえ、彼はうがいと手洗いにいく。

席につくとあたしは一日の自分の行動をなおちゃんに伝える。と、いっても、買い物にいったらお隣の森田さんにあったの、とか、農協の中の団子屋さんが潰れたの、だとか。本当につまらないこと。あたしはなにせ働いていない。なおちゃんは、それでもあたしの話に耳を傾ける。

「へー。そうなんだね。団子残念だったね」

缶ビールを飲みながら照り焼きを食べるなおちゃんをまた愛おしく感じる。早く一緒のお布団に入りたい。まだ就寝時間まで二時間以上もあるのに。朝。なおちゃんが目覚める前に例のセーターを洗おうと手にした時、ギョッとなった。年月の流れだろう。肘の部分が薄くなっていた。肘は異様に稼働するし作業着の下に着ているので破れそうになってもなんらおかしくないし、しかしよく持ったなぁ、という感慨の方が深い。新しいのを買う? もう散々着たしなぁ。そうとも考えたけれど、あっ、と、思い直し、あたしはいそいそと裁縫道具を持ってきた。まだなおちゃんはガーガーと眠っている。そういえば、キリンのアップリケがあったことを思い出す。色味はほとんど黒で黄色ではないところがいい。よし、あたしは急いで肘に縫い付ける。裁縫だけは得意でよかったと今ここで賛辞を送りたい。

出来上がったアップリケは想像を絶するほどに上出来だ。なおちゃんのリアクションが楽しみで、テーブルの上にセーターを置いておいた。

「あれ? なんでこんなところに置いてあるの」

セーターを見つけたなおちゃんがあたしに問いかける。

「ちょっとね、キリンさんがいるから探してみて」ん? そんな顔をしつつセーターを手にとってジロジロと眺める。あっ、と、声をあげ、えっ、と、今度はあたしの顔を覗き込む。破けそうだったのでキリンさんを貼り付けました。「……」たっぷり三秒ほどおいたのち、なおちゃんは口を開いた。

「実はさ、もう捨てようかと思ってたんだよ。けれどね、このセーター実はさ、親父のお下がりなんだよ」優しい声で言葉を紡ぐなおちゃんはキリンのセーターを握りしめる。お義父さんは一昨年亡くなった。

「まだ、着るよ。ありがとうね」

へへへ。なおちゃんは肩をすくめながらセーターをいつものように着て土曜出勤に出かけた。