阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「シミ」佐藤清香

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2019.08.09

第53回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「シミ」佐藤清香

その小説の145ページにシミがあった。ページを表す数字のちょうど上にあり、親指くらいの大きさの黒いシミ。小説のなかでは恋人が死に、物語が動き始めたところにこのシミに出くわした。なんとなく気持ち悪く思い一旦、本を閉じた。

小説は、ずいぶん前に友人から借りたものだった。本棚を整理していたら奥から懐かしい背表紙を見つけた。僕が学生の頃で十五年も昔になる。僕とその友人は同じ映画研究会に入っていて、大学の講義の後は必ずと言っていいほど映画館へ通った。中でもお気に入りは三軒茶屋シネマという映画館だった。レトロな雰囲気のその映画館は僕らを気持ちよくさせてくれた。日常から切り離された異世界。缶ビールとポップコーンで始発を待っていたことも何度もあった。

この日常に変化があったのは、よくある話僕に彼女ができたからだ。彼と映画へ観に行くよりも僕は彼女と過ごしたかった。もちろん、彼も僕を咎めることなんかせず彼女ができたことをとても喜んでくれていたし、交友も広がって大勢で過ごすことが多くなった。

彼は女の子にもてた。背が高くヒョロヒョロした体型にジーパンやシャツを羽織るだけで雑誌から出てきたような洗練された雰囲気があった。僕の彼女の友人は、彼に猛アタックをしていたが、彼は飄々と交わし、また今度ねと薄く笑うだけだった。

彼女と彼の香りが同じと気付いたのは彼女の髪が雨で濡れた時だった。特徴のある彼の香水を纏っている僕の彼女は濡れた髪をタオルで拭きながらいつものように僕に笑いかけた。ほのかに香った疑念が現実となったのは彼女の友人がご丁寧に二人のことを教えてくれたからだ。「最低の人間」彼女の友人は僕にそう言ったけれど僕は、うん、と相槌をうつことしかできなかった。

同時に二つのものを失った。恋人と友人。その時履いていた真新しい赤色のコンバースがやたら悲しかった。彼女に褒められるかななんて思いながら大学に来た僕は、世界一お気楽なやつだ。僕はぐらつく地面を必死になって歩いた。

本をまた開ける。次のページを捲るとまたシミがついている。赤が変色したような黒。血か? ペラペラとページをめくると大きくなったり小さくなったり形を変えて同じ場所にそのシミは出現する。

それから、僕はどうしたんだっけ。

家へ帰って、それから? そうだ、泣き疲れて寝てしまって、カラカラになった喉を潤すためにキッチンへ行ったんだ。リビングからテレビのニュースが流れてて、女子大生が交通事故で亡くなりましたっていう事務的な報道だったけれど、その女子大生っていうのは僕の、あの可愛い彼女で‥‥。

ええと、それから?

シミに触れてみる。黒いそれは血のようにも見えるし、ワインにも葡萄の果汁にも見える。いずれもページの数字の上にある。手が汚れていたのかもしれない。けれど、指紋は見当たらない。

僕は興奮して彼に電話をかけた。彼女が、彼女が死んだ、彼は電話口で落ち着いた様子だった。僕はその感じに腹を立てて、あらゆる罵詈雑言を彼に投げつけた。僕の下品な言葉にいちいち彼は相槌をうつ。たまらなくなって絶交を言い渡し電話を切った。

彼女が死んだ季節は今日と同じこんな暑い日だった。本の中の恋人も僕の彼女と同じ交通事故であっけなく死んだ。読み進めてないのに僕には交通事故なんかじゃないことがわかる。誰かの手によって交通事故に見せかけて殺されたんだ。その犯人は‥‥。

「その話の結論から言うと、僕が君の彼女を殺したって言いたいの」

大学のキャンパスで僕は彼の肩を掴んで一方的に捲し立てた。めちゃくちゃなのはわかっている。けれど、僕の感情の行き場がどこへ向かえばいいのかわからなくて、その出来事から大学へ行けなくなっていた僕が久しぶりに行った大学でコーヒー片手に歩く彼の姿を見た時、僕の感情は抑えきれなかった。

「すべて違うよ、彼女と関係を持ってもいないし、殺してもいない。ただ君が僕を信じられなくなっただけの話さ」

彼はそう言って僕の手を優しくポンポンと二回、叩いた。

シミは物語が進むにつれ、薄くなり、なくなっていった。恋人の死後、物語は淡々と進められドラマティックなことは起こらず、ただその後の些細な感情の揺れやそのとき過ごした季節の表情が描写され決して美しくも残酷でもなかった。そこにはただ時間が流れ恋人の死を受け止めようとも拒否しようともしない主人公が年齢を重ねていた。

145ページを再び開け、一番濃いシミに触れる。果汁、血、ワイン、もしくは全く違う何かをつけたのは、彼、十五年前の僕。それか死んでしまった彼女、怒っていた彼女の友人、全く違う誰か。わからない。けれど、十五年前、誰かがつけたその瞬間の液体はあざやかな赤だったはずだ。黒いシミと記憶を閉じ込めるように、僕は本を閉じた。