阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ヒモ」朝霧おと

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2019.08.09

第53回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ヒモ」朝霧おと

午前二時、待ちくたびれた菜穂がベッドに入ろうとしたとき、やっと俊が帰ってきた。

「おかえり、遅かったね」

いつもなら「腹へったあ、めしめし」と言ってテーブルの皿のラップをうれしそうにはがすのに、今夜は様子が違う。くずれるようにしていすに腰かけた。

バイトの店長に叱られたのだろうか、パチンコですったのだろうか、それとも客ともめたのだろうか。過去にあった嫌な出来事が次々とよぎり菜穂の胸は苦しくなる。

「なにかあったの?」

かがんで俊の顔を見上げた。

「いや、だるい……」

目を閉じた俊は幼い子どものように痛々し気だ。菜穂はそっと彼の額に手を当てた。

「熱があるじゃない。いつまでもフラフラと遊んでいるからよ」

彼の腰に手をまわし、立ち上がらせてベッドに連れて行った。

冷蔵庫からスポーツドリンクと冷却シートを取り出したついでに、なにか口当たりのいいものはないかと探したが、トマトが一個あるだけだ。あいにく俊はトマトが大嫌いだった。

翌朝、熱は下がるどころかますます高くなった。看病のために会社を休みたいが、大事な約束があり休むわけにはいかない。

「ごめん、俊。今日一日がまんしてくれる? 明日は休みをとって病院に連れて行くから」

「病人を置いていくの? ひとりでどうしたらいいのさ」

「ほんとごめん。なるべく早く帰ってくるから」

「ひどいな……じゃあ、スイカを買ってきて」

「わかった、スイカね」

玄関で靴を履きながら、真冬にスイカを売ってる店などあるのだろうか、と考えた。

忙しい合間をぬって果物屋をあちこち回り、ようやくデパ地下でスイカを見つけたときは、安堵のあまりめまいを起こしそうだった。俊が待っている……ただそれだけが菜穂の頭の中を占めていた。

「ただいま、帰ったよ」

ベッドに近づくとかすかにすえた匂いがした。

「おそい」

うるんだ目で見つめられ、菜穂は申し訳なさで息がつまりそうになった。けれど、切り分けたスイカにむしゃぶりつく俊を見ると、いいようもなく満たされた。

俊が菜穂のマンションに転がり込んできてから一年になる。コンビニのアルバイト店員である彼の収入はわずかで、生活費はすべて菜穂まかせだ。

「ぼくの夢は新人賞をとって小説家になることなんだ」

初めて出会ったときの俊の瞳の輝きは今も忘れていない。小説家になんてなれるわけがない、と当時も今も思っているし、彼の夢をいっしょに追い続けたい、という気もさらさらない。ただ俊といっしょにいたい、という思いだけでこれまでやってこれた。

俊が熱を出してから一週間後、今度は菜穂の番だった。

電話の向こうから友人の小夜子の溜息が聞こえ、菜穂の耳元をざらつかせる。

「それってただのヒモじゃん。利用されているだけよ」

「私は何も望んでいないもの。今のままで十分なの」

「なに言ってるの。相手のために使うお金の大きさが愛情の深さに比例するのよ。彼があなたに何をやってくれたっていうの。誕生日は何をもらった? レストランでの食事を一度でもごちそうしてくれた?」

いっぱいの愛をもらっている、などと小娘みたいな言葉をかろうじてのみこんだ。

ベッドに横たわる菜穂を心配そうな顔でのぞきこみ「バイト、休んじゃおうかなあ」と言う俊が愛おしい。

「ほしいもの言って。なんでも買ってくるから。プリン? みかん?」

「あのね、俊。わたし、今はぶどうが食べたいの。できたら大きな房のシャインマスカット」

今の時期、店頭にぶどうは並んでいないし、あったとしても目が飛び出るほど高価なはずだ。

「それと……ぶどうが見つかるまで帰ってこなくていいから」

こんなことで彼を試すなんて、という思いと、彼を信じたいという思いが入り乱れた。

「なんだよ、それ」と言って笑ったが、一瞬、俊の頬に翳が走ったのを見逃さなかった。

いつまで待っても彼は戻ってこなかった。よく朝、ドアの取っ手に、ぶどう味のゼリーの入ったレジ袋がかけられていた。激しい後悔が菜穂を襲う。彼を信じられないのではなく、自分を信じていなかったのだ、と初めて気づいた菜穂は、もどかしい気持ちで携帯をつかんだ。