阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「前を前を行く女」よしひろ

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2019.08.09

第53回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「前を前を行く女」よしひろ

冷凍庫でシャーベット状になったシャインマスカットを皮ごと一粒頬張り、眠気を覚まし、テレビの天気予報に目を遣る。今日も暑い一日になりそうだ。

スマホを内ポケットに収めて家を出ると、すでに背中が汗ばんでいるのを感じる。

駅に向かう途中、コンビニでいつものようにエビアンを一本手に取り、レジに急ぐ。すると、一人の女性が支払いでもたついている。またじわっと汗が噴き出す。

その女はゆっくり、ゆっくりとカバンの中を探っている。レジのモニターの文字が見える。「ネット決済、17,376円」

携帯代か、公共料金の支払いなのか?

トレーの上では、既に一万円札が無防備にひらめいている。その上には、百円玉が三つ。

たぶん、あと数千円足りなくて、あれこれと引っ掻きまわしているようだ。

「迷惑だな、あらかじめ用意しといて欲しいな。」と、誰にも聞こえないほどの小声で呟く。もう一つのレジを開ける様子もなく、結局、五分ほど待たされて、エビアン一本を買うことができた。

「いやな、スタートだな。」

店を出ると、タイミング悪く、前を「あの女」が、のろのろと歩いている。

微妙なスピードで、無理に追い抜くのも不自然で、なんとなく駅までついて行く。

改札に向かい、定期券を取り出したとき、駅構内に一台だけあるATMにまた「あの女」がいた。顔は見えないが、後ろ姿ははっきりと憶えている。支払いで、手持ちが無くなって出金してるのか、と勝手に考えを巡らす。

すぐにホームに滑り込んできた電車に乗り、会社に向かう。

いつものように、モニターに向かってデータの整理やら、顧客への電話などに追われる。

一段落ついて、遅い昼食につく。

セルフサービスのイタリアンのお店はピーク時間が過ぎているので、比較的空いていた。

料理を自分で盛って、四人席に一人で座って、視線を上げると、一つ席を挟んだ向かい側に、また「あの女」がいた。一人で、こちらに背を向けて極端な猫背で、ごそごそと何かを食べている。

なんなんだよ「あの女」、ちょろちょろ前をうろつきやがって。

少し気味が悪くなった。休憩時間も残り少なくなり、スマホを閉じ、スパゲティを急いで流し込み店を出た。

窓から店内を見るが、「あの女」は既にいなかった。

オフィスに戻る途中、急に頭痛がし、いつものドラッグストアに立ち寄る。

急いで薬を片手にレジに並ぶと、二人ほど前に、また「あの女」が並んでいた。腹が立つので、カゴの中身を覗いてやった。

胃薬、目薬、湿布薬、お菓子などかなりの量を放り込んでいる。そして今度こそ、顔を見てやろうとしたその時、もう一つのレジが開いて誘導され、そちらにいっている間に「あの女」は消えた。

オフィスに戻って頭痛薬を飲んだが、なぜか治まらず、午後の仕事の効率は良くなかった。それなりにノルマをこなし終業時刻となる。

体調が悪いので、誘いを断り、寄り道せずに帰る。ただ、毎朝の日課となっているシャインマスカットのシャーベットは欠かすことは出来ない。自宅近くのスーパーに寄り、果物売り場へ向かっていると、目の前を「あの女」が横切った。そして、のろのろと徘徊するかのように歩き、物色している。

一日に、何回も「見知らぬ他人の背中」と遭遇するのは、さすがに気味が悪く、距離を取ってカゴを持ち直す。

程なく、カップ入りのシャインマスカットが視界に入る。しかし、その視線の間には、陰気な「あの女」の背中があり、同じそれを手に取ろうとしていた。

「買わないでくれ!」と、声を出してしまった。その瞬間、「あの女」がこちらを振り返ろうとして、ギョッとした。

同じものを買う気にもならず、渋々、房のピオーネをひとつ、多すぎるかと思ったが買い、店を出た。

前方に目を凝らしたが、人影はない。「あの女」もいないようだ。

このまま、何事もなく家に帰りたいと、とぼとぼ歩いていると、静まりかえったなかメールの着信を告げる短い信号音が聞こえ、足を止め、画面を確認する。

その後、また歩き出すと、どうも後ろから人がついてくるような気がした。振り返ると、女が俯き立ち止まって、スマホを覗いている。夜道で姿がはっきりしない。ただ、女の手には、スーパーの白い袋が。背筋が寒くなる。「あの女か?」

再び歩き出そうとしたとき、何かを踏んだ。靴の底には、「鮮やかなグリーンのシャインマスカット」がねっとりと付いていた。