阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「悪夢」夏崎涼

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2019.10.09

第55回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「悪夢」夏崎涼

先程から読経が始まっている。僕は数珠を握り直した。ここからが長い。どうしても眠くなってしまう。葬儀の席で舟を漕ぐのは、さすがに人目を憚るので、こんな時僕はいつも、何か他愛もない空想をして遊んで、やり過ごすことにしている。頭の中の架空の世界で、宇宙飛行士になったり、戦国時代の武将になったり、映画俳優になったり…。時には、不謹慎な想像を巡らせることもある。

 

故人は、中学時代の同級生だが、ちっとも悲しくない。この男との思い出など、悪夢以外の何物でもないからだ。つまり僕はこの男に、三十年たっても消えない積年の恨みがあった。真面目で、勉強ができて、教師受けのする評判の良い男で、取り巻きも多かったが、実はとんでもない奴だった。きっかけは、この男の借金を断ったことだった。前から欲しかったCDを見つけたが、持ち合わせがないので貸して欲しいというのを断わったら、店を出る時店員に呼び止められ、僕のカバンから覚えのないCDが出てきて、捕まった。通報したのも、証言したのも、仲間から金を集めて店を説得し、僕を無罪放免にしたのも、この男だった。それからは、何もかも、こいつの言いなりになった。裕福な家庭に育ちながら、この男は実は万引きや喝上げの常習者で、驚いたことに満員電車での痴漢行為も日常茶飯事だった。痴漢が露見した時、その罪も着せられた。通報したのも、証言したのも、実行犯のこの男だった。そもそも今、親族席の先頭でしおしおとうなだれている妻女は、僕の元彼女だ。当時彼女が悩まされていたストーカーの犯人は、実は僕だとでっち上げたのも、ストーカー行為を実行していたのも、目的通り彼女を僕から奪ったのも、この男だった。決定的だったのは、僕が昔、痴漢行為で捕まったことがあると彼女に密告したことで、僕を睨んだ彼女の憎悪に燃えた眼は、今も忘れられない。

 

そんな奴が、あの頃から三十年が経ったある夜、僕が当直する病院に、心不全で救急搬送されてきたのには驚いた。復讐の、千載一遇のチャンスが、期せずして訪れたのだ。よし。こんな奴の救命措置なんぞ、誰がしてやるものか。

だが、待てよ。僕は考えを改めた。こいつをこんなに簡単に死なせていいのか? 意識のないまま、特に苦痛を感じることもなく、逝かせていいのか? 冗談じゃない。僕が味わった地獄の苦しみを、是が非でもこいつにも味わわせてやらねば、気が済まない。そこで僕は、一つの方法を思いついた。死ぬ間際に、こいつを、途轍もない恐怖のドン底に突き落とす方法を。よし、これだ。翌日、僕は親族と直接面会して言った。昨夜、容体が急変しまして…全力を尽くしたのですが…残念です。

そうして、今、僕はその葬儀に臨んでいる。復讐は、これからだ。目の前にある棺桶の中の男がまだ生きていることを、僕だけが知っている。

あれから僕は、全力で救命措置を行った。急がなければならない。低酸素脳症で意識障害が起これば、復讐にならない。幸い、搬送中の処置も奏功して、間もなくバイタルが回復し、容体は安定した。その夜、話ができるまでに意識を回復した男に、救命したのはこの僕だと認識させた上で、睡眠剤で眠らせ、動物の冬眠誘導物質を加工した仮死薬を投与した。誰もが、男は死んだと思っている。だが、男は二、三日もすれば意識を回復する筈だ。僕の計算では、おそらくあと数時間。焼香が終わり、最後のお別れがあり、出棺し、斎場まで小一時間。そして火葬炉の中で、男は意識を回復する。真っ暗闇の中で、男は何を思うだろう。自分が生きたまま炉の中に入ってしまったことを、果たして認識できるだろうか。出してくれ、と、大声で叫ぶだろうか。さあ、思い知れ。この僕に、何をしてきたのかを。自らがしてきたことの罪深さを。そして、地獄の業火に、焼かれろ。火葬場まで行って、確かめてやる。僕の復讐の完成を。

 

妻に脇腹を突かれて、目が覚めた。

「あなた。居眠りしないで。みっともないわ」

妻が耳元で囁いた。

「それに、何だか、ニヤニヤしてたわよ。夢でも見たの? 会社の上司のお悔やみでしょ。失礼よ。さっきから奥様が、こっちを見てるわよ」

さ、そろそろご焼香の番よ、と妻に急かされた。

いかん。また、やっちまった。葬式で居眠りすると、ロクでもない夢を見る。