阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「夜を呑む」 西田美波

  • 結果発表
  • 文芸
  • 会員限定

2019.12.06

第57回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「夜を呑む」 西田美波

網戸越しの世界は静まり返っていて、寂しさが一層深く心にじくりと沁み込む。

〇二時一三分。まるで独り取り残されているような気分になるけれど、そうではないことを私は知っている。電気を消した暗い部屋の中で煌煌と明かりを放つスマホ画面に視線を戻す。「眠れないやつおいで」と名付けられたネット掲示板のスレッド。どこにいるともどんな人物とも知れない名を持たぬ人たちがここでおしゃべりをしている。

――明日学校行きたくない

――いじめ?

――無理に行かなくていいんだぞ

――世界は広い!

ドラマからいじめの悩み相談へと話題が移ったのを、私はただぼうっと眺める。

世界は広い。それは正しく、そして間違ってもいる。この世の多くのひとが、広い世界にひしめき合う小さな世界の中で生きている。すぐ隣に他の世界があることをわかってはいても、自分が今この瞬間に生きていないその小さな世界は結局存在しないも同然だ。だから、存在しない場所に簡単に移れるなんて思いもしないし、いざ移ろうと決めても多大な勇気がいる。

この二週間、小さな世界に閉じこもったままの私はまともに眠ることができていない。ようやく寝付いても悪夢で目が覚めるのはしょっちゅうで、今朝は世界が滅亡する夢を見た。はっと目を見開いて天井をぐるりと見回し、あの人がいない世界ならあってもなくても変わらないか、と息を整えながら考えた。

あの人――私が今でも好きなひとがこの部屋を出たのはちょうど一ヶ月前のことだ。青天の霹靂と言うべきあまりに突然のことだったけれど、きっとあの人にとってはずいぶんと前から綿密に立てていた計画だったのだと思う。仕事を終え帰宅すると、同じく朝いつものように仕事に出かけたはずのあの人の荷物は歯ブラシ一本残されておらず、「ごめん 鍵はドアのポストに」と書き置きがテーブルにあった。急いで電話をかけたけれどつながらず、LINEのメッセージにはいまだに既読がつかない。

そのことははじめ、私に怒りのエネルギーを与えた。あの人の勤め先に行けばひょっとして会えるだろうけれど、もう知ったことか、と拳を震わせた。大事な場面で逃げ出すようなひとだとは思いもしなかったから、裏切られたとしか感じなかった。

一週間が過ぎて少し私は冷静になり、次の一週間はどことなく物足りない気持ちで過ごした。それから、眠れなくなった。夜中に自分の息遣いしか聞こえないことが、あの人の不在を私にこれでもかと突きつけてくる。眠ったほうがいっそ現実から逃れられるのに、そうするとあの人が隣にいた日常の記憶が薄れていくのが怖かった。夜の孤独に耐えられなくなり、人が集う場所を求めて辿りついたのがこの掲示板だった。

――眠るためのおすすめある?

新しく来た人だろうか、ごく真っ当な質問に皆が反応する。

――そんなときはグラスで夜を呑みます

流れていく書き込みの中、私はその一文に引き寄せられた。

――夜に呑むの間違いだろ

――なんだただの酒飲みか

書き込みに表示されるIDを見る限り、「夜を呑みます」と書いたひとはそれきりなにも語っていない。本当に書き間違いなのか知りたいのに、掲示板では今度はおすすめの睡眠導入剤の話題で盛り上がっている。

キッチンから透明のグラスを取り出してベッドに戻る。窓際にもたれかかり、外を眺めて思案した。どうやって夜を呑むのだろう。グラスの向こうに満月が浮かんでいる。

「あっ、そうか」

グラスに水を入れてふたたび夜空にかざすと、空に浮かんでいた月はたちまち水に沈んだ。小さく、輪郭は朧になり、ゆらゆらと漂う。まるでグラスに夜が閉じ込められている。

目を閉じて口元にグラスを傾ける。きっと月は舌の上を転がるだろう。幼い頃に駄菓子屋で買っていた飴玉のように、少しざらざらしてほんのり甘い。その周りを紺色の夜がとろりと流れる。星は触れるとぱちぱち弾ける。

喉を伝い、胃に滑り落ちる。浮かんだ月が身体の内から私を優しい光で照らす――。

眩しさに顔をしかめて目をあけるともう朝だった。

休日に朝から元気よくでかける子供たちのはしゃぎ声、道路を過ぎ去るエンジン音、隣の人がベランダを歩く足音。身体が軽い。これほど深く眠ったのは久しぶりだった。ベッドサイドに置かれた空っぽのグラスが、日射しを浴びて輝いている。

世界は音と光に満ちている。今日はどこかにでかけて思い切り楽しもうと、計画を立てながら温かな気持ちで笑みがこぼれた。