阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「この壁を、越えろ」ゆい子

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2020.01.09

第58回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「この壁を、越えろ」ゆい子

予備校の夏期講習が始まった。周りは毎日ピリピリしている。講師も、受講生も、教室の空気も。僕一人がついていけていない。

どの講師も一度はこう叫ぶ。

「この夏で人生が決まるんだ!」と。

本当なのかな。僕はまだ、「あの夏で人生が決まりました」と語る大人に出逢ったことがないけど。しかし講師にも両親にも訊けない。めんどくさいお説教をいただくだけだ。

今日の講習が終わり、僕は二階の教室から階段で一階のロビーに降りた。

ロビーには夏期講習受付のポスターが二十枚ほど並べて貼られている。

ポスターの中では、セーラー服を着た女子が棒高跳びで高いバーを越えようと挑んでいる。その女子の目は何の迷いも不安もなく、まっすぐだ。背景に小さく写っている空は爽やかで、抜けるような青空。

『この壁を、越えろ!』

僕はポスターに書かれたキャッチコピーを呟くように読んだ。

すると隣に立っていた友人の美亜が

「越える前にパンツ見えちゃうよ。スカートで跳んじゃいかん。」

とポスターにツッコミを入れた。

それが聞こえた周りの数人がクスクス笑い、近くにいた講師が僕と美亜を睨んだ。僕は思わず下を向いたが、美亜はケラケラ笑っていた。

僕を巻き込まないでほしい。僕はただ無難に傷つかないように過ごしていたいのだから。

予備校の帰り、僕はチェーン店のカフェに寄った。そんな時間があるなら単語の一つでも覚えればいいのだが、短い時間でいいから現実逃避したかった。

一番安いコーヒーを買い、窓際のカウンター席に座った。飲みながら街を歩く人々をぼんやり眺めた。なぜみんな楽しそうなんだろう。なぜ意思を持って行動しているんだろう。そんなことを考えていた。

十分ほど経っただろうか。椅子一つ空けた右側に女性が座った。あまりにも美しいので、つい凝視してしまったが、すぐに自制した。しかしなぜか気になってチラチラ見てしまった。

こんなきれいな人、知り合いじゃないよな。でもどこかで見た気がする。

すると僕の視線に気がついた彼女はニコッと笑って、言った。

「ヒント。この壁を、越えろ。」

「あっ!」

僕の記憶の中にある夏期講習のポスターの女子と目の前の美しい彼女が、やっと頭の中で重なった。

「君、受験生?」

彼女は僕の隣の椅子に移動してきた。近くて緊張する。

「うん、君もだよね?」

「私?違うよ。私はモデル。有名じゃないけど。」

ああいうポスターは本当の受験生ではなく、モデルがやるものなのか。

「大学、どこ受けるの?」

「一応東大。今一浪中。」

「東大で何をやりたいの?」

僕は答えられなかった。そんなこと訊かれたことがなかった。

「父親が東大だったし。やりたいことはまだわからないよ。学部もいくつか受けるから受かったところによって変わるし。」

なぜか僕は言い訳みたいに必死に抵抗した。

「あー、そんな感じ。目、死んでる。」

美しいけどずいぶん失礼な人だ。僕は我慢ならなくて、無視をした。しかし彼女は気にしないみたいだった。

「やりたいことや好きなことが見えてなきゃ、きっとまた受かんないよ。」

「そういうあんたは何かあるのかよ。」

「私はね、今はまだ大きい仕事はもらえないけど、いつか絶対、女性誌の表紙を飾るモデルになるって決めてるの。」

その目標がどのくらい大変なことなのか、僕にはよくわからない。

「この壁を、越えろ。ってあのキャッチコピー、なんか変。壁なんて、好きなことをとことんやりきるって決めれば、簡単に越えられちゃうのに。」

そして彼女はポスターと同じ、迷いも不安もない、まっすぐな目で僕を見つめた。

彼女が羨ましかった。僕もこんなまっすぐな目になれたら、壁を越えられるのだろうか。

「見つけるよ、自分の意思。見つけたら。またここで逢ってくれる?」

彼女は小さく頷いた。