阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「駅前留学」矢野薫

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2020.02.07

第59回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「駅前留学」矢野薫

アメリカの辺りを探検し終えた私。いつも帰国したときには虚無感にかられてしまう。そして思い出すのはあの日のこと。

これは私が学生だった頃の話。
その頃、巷では駅前留学という語学教室が流行っていた。元々流行りものに目がなかったことと、初めての海外旅行から戻ってきたばかりだったことも相まって、私は駅前留学することに決めた。
早速、最寄りの駅へ向かったが、どこを探しても見当たらない。コマーシャルではどこにでもあるようなことを言っていたのに。文句言ってやらなくちゃ。
最寄りの駅から3つ先の駅前のビルの中に看板があるのを発見し、勢い込んでビルの階段をのぼった。そのビルは妙にみすぼらしく、エレベーターもなかったのだが、私は駅前留学の看板を、やっと発見したことで周りが全く見えなくなっていた。もう少しよく観察していればと、あとになって後悔するのだが。

扉を開けると、人の気配は全くなく、これもまたコマーシャルに裏切られた思いだったが、ここまで来たのだ。帰るのもしゃくだった。

「すみませーん!」

返事はない。誰もいないのかしら?
怒りのバロメーターが上がろうとした瞬間、奥から「ふぁーい」と、間の抜けたような返事があった。奥から出てきたのは、白のブラウスに紺のベストとスカート、腕には黒の腕カバーを付けた、ザ・事務員といったような出で立ちの女性だった。

「なにか?」

のんびりしていた時間を壊されたとでも思ったのだろうか、剣呑な響きが気になったが、もう後戻りはできない。

「入会したいのですが」
「ああ、入会ですか。では、こちらに記入してもらっていいですか」

事務員が差し出す用紙に個人情報を記入しようとして、ある部分に目が留まった。

「あのー、すみません。これって・・・・・・」
「なんですかぁ?」
「これです。これはなんですか?」

事務員は、私が指示した個所を面倒くさそうにのぞき込んだ。

「ああ、うちで扱っている外国語講座ですね」
「いえ、それは分かっているんですが、この、アバ・・・アバチェ・・・アバチェリヒキ語? これは?」
「アバチェリヒキ語です」
「そのアバなんとかってどこの言葉ですか?」
「アバチェリヒキ語です。知らないんですか?」

知ってて当然といった感じで聞いてくるので、知らないとは言えず、

「あぁ、あれですね。知ってますとも。えーっと、あれはどこでしたっけ?」
「アメリカの北の方にある国ですよ。今注目の国ですよ。ニュースにもなってますが」

全く記憶になかったが、元々ニュース番組など見ないので、そのせいかもしれない。

「これから新しく語学を学ぶのであれば、アバチェリヒキ語がおすすめなので、うちでは入会金無料でやらせてもらってますね」
無料。なんて素敵な響きなのだろう。
「そうなんですね。じゃあ、アバチェリヒキ語でお願いします」
ひととおり申込書類を書き終えたのを確認すると、
「はい、では十万円いただきます」
「えっ?」
「十万です」
「えっ? さっき無料って」
「あぁ、それは入会金で、十万は月謝ですね」
「月謝? 月に十万もするの!」
「そんな訳ないじゃないですか。アバチェリヒキ語、一年分の月謝の前払いと事務手数料ですね」
と、ちょっと小ばかにしたように言われたので、さすがにムッとした。
「じゃあ、アバチェリヒキ語辞めます」
「もう無理ですね。ここに署名されてるので」

申込書には小さな文字で、署名後のキャンセルはできません。とあった。

「分かりました。カードでもいいですか」
「もちろん!」

受け取ったカードの処理を行いながら、

「でもちょうど良かったです。今なら入会金なしで、アバチェリヒキ語の第一人者になれますよ。もし何かあった場合、マスコミに引っ張りだこ。月謝分なんて、あっという間に回収できますね」
「第一人者って?」
「だって、アバチェリヒキ語、習得した人今まで誰もいませんから」

そう、誰もいないのだ。
未だに私は、アバチェリヒキ語を話す国を探している。