阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「家出」高山純

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2020.02.07

第59回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「家出」高山純

駅に行けば何とかなる。そう思っていた家出のことを思い出している。

あの時、私は十歳だった。周りが成熟していくのをよそに、私だけは家と学校、公園が世界のすべてのままだった。
きっかけなんて何もなかった。ただ単純に思ったのだ。そうだ、家出をしよう。別に家族に不満があったわけではない。家出という概念だけは知っていて、その非日常さにあこがれたのかもしれない。
商店街を、月に一度通う床屋の方に抜けていく。床屋の前を通った時、いつも髪を切ってくれているオジサンが、こちらを向いた気がした。それだけで心臓がどきどきした。

駅に行くのは初めてだった。いつも父が、通勤のため駅を利用する。床屋を抜けてしばらく、大きな看板のある和菓子屋さんを右に曲がる。それでまっすぐ。そうしたら見えてくる大きな二階建ての建物が、駅だ。お父さんの足では家から十五分もかからないはずのその道は、子供の私にとっては果てしない道のりに思えた。傾いてきた西日が、私の身体を照らした。
とにかく、駅に行けば何とかなると思っていた。筆入れを買うためにためていたお小遣いを持って来ていたし(千円ぽっちだったけれど)、電車に乗ればどこまでも行けるのだと思っていた(実際は切符の行き先までしか行けないし、それに、終点というものがある)。電車に乗って三駅向こうには父方の祖父母が住んでいたし、祖父母だって私が向かえば喜んでくれるはずだ。漠然とそうした安心感を抱えていた。

床屋を越えた先は一度も足を踏み入れたことがなかった。初めて歩く道、夕暮れ時の街の気配。肉屋の前からコロッケの匂いがして、部活帰りの中学生が自転車で通り過ぎていく。そういったものが、幼い私を高揚させた。
和菓子屋の看板が見えた。もうほとんど街は夕闇の中だった。黄色い明かりが和菓子屋から漏れていた。私は突然思った。おなかが空いている。そこから店内に入るまでに、ものの十秒もかからなかった。

「あんくりーむどら焼きを、四つください」

気が付くと、私は家出中だというのに、所持金のほとんどを使って家族四人分のどら焼きを買っていた。私の分と、父と母と、五歳になる弟の分。弟は食べきれないかもしれない。でも、彼だって立派な家族の一員だ、なんて大真面目に考えかんがえ、どら焼きを買ったのだった。母からもらったちょきんぎょのがま口財布には、小銭がいくつかしか残らなかった。

でも、私は家出をやめようとはしなかった。駅までは、あと少しだ。駅の屋根が見えてきた。緑色だ。その上に、小さな星が一つ、輝いていた。もう夜なのだ。

一体、駅まで行って、何をしようと思っていたのだろう。駅まで行けば大丈夫だ、駅まで行けば、大丈夫。私はそう唱え続けていた。足がだんだん動かなくなり、軽いはずのどら焼きでさえも、ずっしりと重い。駅の屋根を見る気力もなくなって、私は足元を見ながら歩き続けた。

「あれ? ミサじゃないか」

その時、目の前に大きな影が出来、その影が私の名前を呼んだ。そしてその影から大きな手が二つ伸び、私の両脇を持った。身体がふわっと浮かび上がり、顔を上げると、父の顔が目の前にあった。

「どうしたんだ? お父さんのお迎えか? うれしいなぁ」

父はそのまま私を抱っこして、私がへいこら頑張って歩いてきた道のりを、軽い足取りで歩き出した。

「おっ、それはオノデラの袋じゃないか。お父さんにお土産まで買ってくれたのか? ありがとう」

父がにこにこと笑いながら言うので、私はうなずく他出来なかった。かくして、私の初めての家出は、幕を閉じたのである。帰宅すると、私が帰らないからと心配していた母にこっぴどく叱られ、泣きながら家族全員でどら焼きを食べた。

今でも私は、あの日たどり着けなかった駅の屋根の色を、その上の星の輝きでさえも、ありありと思い出せるのだ。