阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ホームにて」荻野直樹

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2020.02.07

第59回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ホームにて」荻野直樹

妻以外の女性の寝息を久しぶりに聞いた。

十二月の駅のホームは底冷えがするが、私にもたれかかって眠り込んでいる女性の体の温もりが、私に寒さを感じさせなかった。私はこの暖かさと穏やかな呼吸と香水の匂いに戸惑っていた。

私達は二人共酔っていた。
忘年会と年内で退職する社員の送別会を兼ねた宴会の帰りだった。多少飲み過ぎたのと電車の快適な暖房のせいか、私達は降りる駅を乗り過ごしてしまった。駅のホームで椅子に座って、戻る電車を待っている所だった。途切れ途切れの会話が途絶えたと思った瞬間に彼女は白河夜船だった。
宴会シーズンのはずなのだが、駅のホームに酔客は疎らだった。彼らはみんな眠そうだったが座ろうとしなかった。電車を乗り過ごす事を恐れているのだ。私達だけが仲間外れのようにポツンと椅子に座っていた。

私は彼女を起こさないように、気を付けながら横顔を盗み見た。
いくつなのだろう?

同じ部署で仕事をするようになってから、もうずいぶんになるが、私は彼女の事を余り知らなかった。帰りが同じ方向だと言う事も今夜初めて知ったぐらいだった。
三十代半ばから後半ぐらいか? あるいは四十に手が届いているだろうか? 確かまだ独身だと聞いた事があり、私は不思議に思ったものだ。彼女は十人並にきれいで、気立ても良さそうに思ったからである。余計なお世話であるが。

それにしても、私はともかく彼女がこんなに酔い潰れるとは思っていなかった。普段は物静かで控えめな印象が強いからだ。まあ、彼女とて聖人君子ではない。羽目を外したい時もあるのだろう。
深夜に近いので電車はなかなか来ない。
冬の夜空は冴え渡っていた。遠く満月が深々と幻想的な姿を見せていたが、駅の近くに昔ながらの安っぽいラブホテルがあり、けばけばしいネオンライトが、月の光が下界に届くのを防げていた。
少し興覚めしたが、そのホテルの看板を眺めているうちに、彼女の体の温もりや美しい横顔を改めて意識して、私は体がさらに火照るのを感じた。

我ながら驚いた。
私は明らかに彼女に欲情しているのだ。

これからあのホテルに誘ったらどうなるだろう?
彼女は飲み過ぎているし、心に隙もありそうだ。うまくいきそうな気がする。このまま彼女が眠ったままなら、終電がなくなってから起こして、少し休んでからタクシーで帰ろうと言ってホテルへ連れ込めば良いのだ。今夜の彼女なら断らないのではないだろうか?

もしかすると、私は無意識の内に、彼女の事を気に入っていたのかも知れない。彼女とこうなりたいと思っていたのに違いない。千載一遇のチャンスだ。
今までは不倫なんて映画やドラマだけの話で、私には全く関係がないと思っていた。しかし、何かのちょっとしたきっかけで、誰にでも始められるものに違いない。ついに、私にもその時がやってきたのだ。

妻の顔は全く頭の片隅にも思い浮かばなかったが、何故か、初めて一緒にラブホテルに入った女を思い出した。妻と知り合う前に付き合っていたのだが、その時の何とも言えない高揚感と少しばかりのためらいと僅かばかりの怖さが、何十年を経て私の中に戻ってきていた。私はここ数年感じた事がないような興奮を感じて、手袋をしている彼女の手をぎゅっと握りしめた。

「起きて下さい」

突然に声を掛けられ、私は目を覚ました。
いつの間に眠っていたのか? 同じ駅のホームの椅子だったが、隣に彼女はもういなかった。
駅員が私の前に立って言った。

「もう電車はありませんよ」

私は唖然とした。戻りの電車も乗り過ごしたらしい。
彼女はどうしたのだろうか?
駅員に尋ねてみたが、最終電車が出た後は私一人だけと言う返事だった。
では、彼女は私を置いて乗ったのだ。

どうして私を起こさなかったのか? 理由が分からない。何か失礼な事をしたのか、或いは言ったのか? 記憶が全くないのだ。とにかく週明けに彼女に謝るしかあるまい。

私は駅を出てとぼとぼとタクシー乗り場に向かった。酔いはすっかり醒めてしまった。
十二月の寒気が容赦なく襲って来た。私はコートの襟を立て、ふと空を見上げた。
凍てついた満月は美しかったが、少し悲しそうに見えた。