阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「迷霧」和泉あや子

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2020.02.07

第59回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「迷霧」和泉あや子

終電近くの時間ともなれば、人はまばらであった。霧雨に包まれたホームは静かで、遠くに踏み切りのサイレンが冷たく流れていた。自分はその音をホームのベンチに座ったまま聞いていた。機械が古いのか錆びたような音だった。

電車が駅に入ってきて、何人かの客を乗せ、駅を去っていった。改札口へと向かう二、三人は自分には見向きもしない。
その日最後の電車を見送ると、次発を知らせる電子掲示板は光が消えて真っ黒になった。駅は閑散とした。
誰もいなくなった駅で、目的の電車を待った。終電の後に来るという、ほとんどの人が知らない便を、線路を見つめながら待っていた。

夜の時間はゆるやかと言うよりも果てしないような感じがした。鈍い緑色をした駅の時計は一時を回っていた。雨の音が夜に吸いこまれていく。空気が冷えてきたように感じるのは、単に気温が下がってきただけなのか、自分が冷たくなってきているのか分からなかった。指先を重ね合わせたら芯まで冷たかった。

微かに電車の音がした。静かな駅には遠くからでも電車がこちらに向かっているのが分かった。線路の先は雨で烟っていた。
もやの中から黄朽葉色の光がさした。そして錆びついた車両が姿をあらわした。自分はベンチから腰をあげて、一号車の停車場所までホームを進んだ。鈴の鳴るような合図が誰もいないはずの駅に響いた。弱い風が急に流れてきた。

「若い人が珍しいねぇ」

いきなり隣から声がした。ギョッとして見れば老婆が腰を丸くして立っていた。皺だらけの顔をこちらに向けてにんまり笑っている。

「あんたさんも向こう(……)に行くんですかい?」

かすれた声でこう尋ねてきた。「そんなところです」とうなずいた。老婆は「そうかい」と納得したように返事をした。
言葉を交わしたところで電車が到着した。行先を示す部分は白だった。扉が開いて、老婆がゆっくり乗りこんだ。自分もその後につづいて車内に進んだ。

板張りの床は薄汚れ、座席のクッションも昔は綺麗な赤いビロードだったのだろうが、いまは茶色味を帯びていた。客はさきほどの老婆と自分しかいなかった。自分は運転席の見える端の席に腰をおろした。老婆が向かいに座っていて、時折、目が合いそうになる。視線を後ろの窓に移した。鈴のような音がして電車が動きだした。ホームが遠ざかっていくのをぼんやりと眺めた。見納めだった。
電車は霧雨のもやの中を走った。古い型のわりに、夜の線路を滑るように進んでいた。
外の景色はひたすらに闇だった。特別変わったものも窓に流れてこないので車内に向きなおると、老婆と視線が交わった。自分は愛想笑いを浮かべた。向こうもにんまり笑った。たぶん相手にとっての愛想笑いなのだろう。

「あんたさん、向こう(……)のどちらまでいかれますのん?」とぽつりと言った。自分はまだ受け入れ先が決まっていない、と答えた。「まだそれだけ若いと無理もないなぁ。十七、八くらいに見えるけぇど、そんぐらい若くに向こうに行くことになるとすぐに行先決まらんよなぁ」と金歯をのぞかせながら話しはじめた。

向こう側に行く人は多くないらしい。いわゆる生まれ変わりの類の中でも、記憶と縁を持ち越せる世だそうだ。

「強く会いたいと思う人がいるとか、やり残したことへの執着があるとか、そういうものを持った人が向こう(・・・)に行けるって噂に聞いちゃあいるけんど、ほんとんところはどうだか、さっぱりわかりゃしないねぇ」

老婆は白い頭を掻いた。

「結局のところ、お釈迦さまの考えることは俗人にゃわからんね」

饒舌にしゃべる老婆の話を適度に相づちを入れて聞いていた。聞きながら自分はどうして向こう側へ行くのだろうかと考えた。どう頭の隅から隅へ巡らせても、それらしき理由になりそうなものは見つからなかった。わかったのは蜘蛛の巣がかかったような、ベタついた思い出と、霧のかかった記憶だった。どうしても霧はとれない。
考えている間も相手はしゃべりかけてきた。どうして駅が分かったのか、若いので未練の一つ二つぐらいあるだろう、と聞くのを、曖昧に答えて、霧のかかった記憶をどうにかしたいと内心やけになりはじめた。
わからない。わからないことだけがわかる。答えは、今は手に入らないようにさえ思いはじめた。

「記憶、だ」

口からこぼれた独り言がすとんと腑に落ちた。自分は記憶を探している。だから二十歳も越えずに向こうへと電車に乗った。
電車は真夜中を走っていった。運転席に目をやると誰もいなかった。