阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「さくらとミケ」吉岡幸一

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2020.04.09

第61回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「さくらとミケ」吉岡幸一

「お母さん、みて、猫だよ、猫だよ」
息子は玄関から靴もそろえずに上あがってくると、猫を両腕の下から持ちあげながら私に言いました。私は干しておいた洗濯物を取り込んで居間に入ってきたところでした。
生まれて半年くらいの猫でしょうか。猫は嫌がる素振りもみせずに私に抱かれました。すこし太った猫で、毛並みはよく、爪の手入れもされています。
「三毛猫ね。どうしたの」
「公園にあるさくらの木の下に、ダンボールに入れられて捨てられていたんだ。この子を拾ってくださいって、ダンボールの箱に書いてあったから……」
「まあ、だから拾ってきてしまったのね」
「いいでしょう。お母さんも猫が飼いたいって言っていたじゃない」
息子は私が抱いた猫の背中を撫でながら上目づかいで言いました。私はかるく笑うと「そうね」と答えました。
庭のある中古の一軒家を去年の春に購入してこの町に引っ越してきて、息子も小学校に馴染み、夫も通勤に慣れ、私もこの家での生活に落ち着きを見出していたので、以前から猫を飼いたいと思っていたことをこの頃口にだすようになっていたのです。
「また捨てにいくのも可哀そうだからね。お父さんが良いって言ったらね」
「やった。お父さんならきっと大丈夫だよ。お父さんも猫好きだから」
「そうね。それで名前はなんてつけるつもり。家族になるのなら名前は必要でしょう」
「名前か。桜の木の下に捨てられていたから、さくら、でいいじゃないかな」
「さくら、いいじゃない。雌だし、なんだかこの丸っこい顔に似合っているわよ」
「さくら、お前の名前は今日からさくらだよ」
息子が話しかけると、猫は意味を理解したかのようにミュウと鳴きました。
取りこんだ洗濯物を畳むことも忘れて、息子と一緒になって猫と遊んでいると、玄関の呼び鈴がなりました。私は猫を抱えてでていくと、二十歳くらいの知らない女がドアを開けて立っていました。女は急いできたのでしょうか。息を切らしていました。
「なんでしょうか。ご用件は……」
私が抱いている猫を見ると、女は嬉しそうな顔をしました。息子は私の袖をつかみながら不安そうな顔をしています。
「ミケを引き取りにきたんです。公園にいた子供たちに聞いたら、こちらの家に連れて行かれたというもので」
「ええ、捨てられていたので拾ってきたのですよ。うちで飼うつもりですけど」
「ミケは私の猫なんです。一度は捨ててしまったんですけど、やっぱり捨てられなくって、それで公園に戻ってみたら……」
「まあ、身勝手なひとだこと」
「身勝手は充分承知しています。どうかミケを返してください。ミケは私の猫なんです」
女はふかく頭をさげました。
「さくらは僕の家の猫になったんだ。だから返さないから」
息子は私の袖をつかんだまま前にでると声を張りあげました。
「さくらじゃなくて、この子の名前はミケというのよ。ねえ、ミケ、おうちに帰りたいでしょう」
女は猫に声をかけましたが、猫は丸い目でじっと女を見るだけで何も答えませんでした。
「いやだ、お母さん、さくらを返したりしないで。お願いだから」
私は困ってしまいました。猫を返すことが筋だということはわかっていましたが、息子の気持ちを想うと返すことに抵抗を感じないわけにはいきませんでした。それに私自身もできることなら猫を返したくなかったのです。
「どうして、猫を捨てられたんですか」
「婚約破棄をされて、自暴自棄になっていて、それでつい猫にあたってしまったんです」
せめて同情できる理由ならば、と私は思っていたのですが、それほど同情はできませんでした。私が困っていると、タイミングよく仕事を早上がりした夫が帰ってきました。夫は玄関口でなにがあったのかと戸惑っていました。私は立ちすくんでいる夫に向って事情を詳細に語りました。夫は私の話を聞き終えると、なんだという顔をして私が抱いている猫の首根っこをつかまえて取り上げました。
「そういうことなら、猫をふたつに分ければいいだけじゃないか」
夫は両手に力を込めると猫の首を思いっきり引き裂きました。「死んでしまう」と、私が叫んだ瞬間、猫はまるで細胞分裂でもするかのようにニュルッと二つにわかれたのです。一匹の猫が一瞬にして二匹になったのです。
分かれた方の猫を女に渡すと「ミケ」と、女は呼びました。残った方の猫を息子に渡すと「さくら」と、息子は言いました。二匹の猫は同時に同じ声でミュウと鳴きました。

(了)