阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「不詳」菅保夫

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2020.04.09

第61回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「不詳」菅保夫

クサビを打ち込まれているような頭痛に耐えられず、私は目を覚ました。窓の外からはアカネ色の光が差している。簡素で冷たい感じの部屋で、自分が病院のベッドで寝ているのが瞬間的にわかった。体を起こそうとすると、今度は右足に激痛が走った。目をやると、私の右足にはギプスが付けられている。
何がどうしたのか理解ができない。記憶を振り返ろうとすると、そこには何もなかった。様々なモノが詰まっていたであろう私の記憶の箱が、空になっているのである。自分の名前すら見つからない。
私はどうしてしまったのか、パニック状態になりながらナースコールを押す。心臓が強く激しく叩きつけ、その脈動とともに頭と足の痛みも強くなる。看護師と医者がかけつけてきた。私は医者の腕をつかみ、記憶がなくなっていることと、体の痛みを訴える。医者はとにかく落ちつきましょうと注射を打ち、私はまた眠りに落ちていった。
再び目覚めても記憶は戻っていなかった。医者と警察が現状を説明する。私は当日の午後三時頃、横断歩道で信号から頭を殴られ、車道に倒れこみ、二台の車にひかれたそうだ。
三回死んでいてもおかしくなかったらしい。頭は腫れ上がって出血もあったが、脳内に異常はないそうだ。右足は足首を複雑骨折していた。あとは全身にスリ傷や打撲があったが、事故の割には傷が軽いらしい。
殴られてから事故に会うまでの様子は、いくつもの防犯カメラなどに撮られていた。私を殴った犯人は帽子とメガネとマスクをしていて顔がわからず、まだ捕まっていない。通り魔的なものなのか、何か私に恨みがあったのか、それもわからない。
一番の問題は私の記憶が戻らないことだ。そのとき私は礼服を着ていたが、ネクタイはしていなかった。持ち物はハンカチと裸の現金が三万円ほど、財布はなかった。鏡に写る自分は五十代くらいだろうか、まるで他人のようで親近感がない。
窓から見える景色はのどかな風景だ。山に囲まれた内陸の小さな町である。私がこの町の住民ならば、誰であるかすぐにわかりそうなものだ。
こういう症状は短期的で治る場合がほとんどだと医者は言ったが、改善されぬまま日が過ぎていく。私に家族がいるのならば捜索願を出しているはずだ。職場や友人も探すに違いないと思うのだが、どうなっているのだろう。
犯人は誰なのか、私の知り合いか。怨恨による犯行だったのか。あんなに人がいる中で事におよんだのだから、相当の覚悟の上だったのだろう。私が死んでいないこと知ったら、再び襲撃に来るのではないか。考えると興奮し、また傷が痛くなる。
三ヶ月が過ぎた。私の記憶は今だに戻らず、捜査に進展もなかった。頭の傷は治ったが足はまだ痛みが残り、当面は杖とリハビリが必要な状態だ。
今は病院の好意で病院の寮に入れてもらい、院内の雑用の仕事をさせてもらっている。最初の頃は犯人が戻ってくるかも知れないと、警察が警備に付いていた。だが今は週に一度、様子を見に来るだけになった。わざわざ危険を犯して戻る可能性は低いらしい。
私は通称で(黒さん)と呼ばれている。これは私が礼服を着ていたことに由来していて、看護師たちがそう言いだしたのだ。私も気に入っている。
仕事がない日は、町中を歩き回る。リハビリのためでもあるが、私を知っている人に出会うかも知れないと期待もあってのことだ。
今日も休み休み歩き回って帰る途中。横断歩道で信号に捕まり、替わるのを待つ。見上げる空はよく晴れていて、きれいな夕焼けだった。また今日も自分を知っている人とは出会えず、タメ息が出る。
信号が替わり、歩き出そうとしたときだった。「〇〇さん」と後から声がした。穏やかな声で呼びかけている。肝心な名前のところが聞き取れないが、私のことではないと思い歩みを進める。すると、「〇〇さんでしょ」と再び声が聞こえた。まさか自分のことかと振り返った途端、頭に強烈な衝撃を受け私は倒れた。また殴られたのだ。
女性の悲鳴が聞こえた。私は倒れたまま体を動かせず、声も出せない。魂が肉体をゆっくり離れていくように、意識が遠くなっていく。誰かが私の肩を叩きながら声をかけている。「大丈夫ですか、自分の名前を言えますか」

(了)