阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ロッカールーム」朝霧おと

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2020.05.08

第62回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ロッカールーム」朝霧おと

ロッカールームは居心地がいい。できるものなら、仕事が終わるまでずっとここに隠れていたいくらいだ。澱んだ空気と静寂と閉塞感。特に朝のあわただしい時が過ぎた二時間後くらいがちょうどよかった。
リコは入社してから半年間だれに気づかれることもなく、ここで束の間の安らぎを味わっている。

「桜井さん、知らない?」

ドアの向こうでリコを探す本田さんの声がする。

「どこに行ったんだろう。気分が悪いのかな」

サボっているのも知らないで心配してくれる本田さんは本当にいい先輩だ。
足音が遠ざかったあと、リコは大きく息を吐いた。
ロッカーの扉を開け、ぬいぐるみのナルミを取り出す。実家の愛猫によく似ていて思わず買ったものだ。手のひらサイズなので、ロッカーに置きっぱなしにしても邪魔にはならない。
両手で包み込むようにしてナルミに顔を近づけると、ふわっと渋い香りがする。すると先ほどまでの緊張が解け、体が宙に浮くような感覚になる。毎回、行うリコ流の儀式だった。

「あのう……」

ふいにロッカーの向こう側から声がした。だれもいないと思っていたリコは驚きのあまり、もう少しで悲鳴を上げるところだった。

「だれ?」

リコの探るような声と同時に、女性がロッカーの向こう側から顔をのぞかせた。
彼女は「あなたも?」と言い、いたずらっぽい笑みを浮かべた。瞬時に仲間であることを悟った。

「ここは息抜きに最高よね。普段はだれも入ってこないし」

初めて見る顔だった。名前はさよ子、色白の小柄な女性で、自分と同じくらいの年齢に思われた。

「私、会社勤めが向いていないのかも。他人と長時間、同じ空気を吸っていると息苦しくなるの。それでも働かないわけにはいかないものね、ここで息抜きをしながら一日をなんとか乗り切っているのよ」

同じだ。社会に出て半年、何度辞めたいと思ったかしれない。けれど辞めて新しい職場を見つけたとしても、そこがここよりいいという保証はない。しかも半年で退職だなんて、世間の目を思えば恐ろしくてできなかった。
彼女と話すうち、しだいに自分の心がほぐれていくのがわかった。

その日を境に、ロッカールームでたびたびさよ子と会った。他愛ない話をするだけなのに、リコは満たされ、いつのまにかさよ子の姿を探すようになっていた。彼女はリコの同志であり共犯者でもあった。
その日、リコがロッカーの扉を開け、ナルミを取り出していると、向こうで彼女のすすり泣く声がした。

「どうかした?」

ロッカーの陰から彼女の揺れる髪と黒い靴先が見える。
きっと辛いことがあったのだろう。私だって自分の情けなさに泣きたいときは何度もある。こんなときはそっとしておくに限る。
リコはそれ以上声をかけることはせず、自分の儀式に没頭した。
本田さんに呼び出され、夕食をいっしょにしたのは、それから一カ月後のことだ。

「大分、慣れてきたみたいね。最近元気そう」
「はい、ありがとうございます。おかげさ……」と、言い終わるか終わらないかで、本田さんがテーブルの向こうから身を乗り出してきた。

「会ったんでしょ、彼女に」

なんのことかわからず「は?」と首をかしげた。

「さよ子よ。ロッカールームのさよ子」

さすが本田さんだ。なにもかもお見通しだっのか。リコは恥ずかしいほどうろたえた。

「昔、私もお世話になったのよねえ。彼女のおかげで今もこうして働いていられる。実は彼女……ま、いいか。明日、彼女のロッカーを確認してみたらいいわ」

本田さんの意味深な顔に「どういうことですか」と迫ると彼女は重い口を開いた。

「さよ子さん、いい人なんだけどね、今はいないのよ、そういうこと」

ロッカールームにはだれもいない。リコはさよ子のロッカーの扉に手をかける。とまどいながらその扉を開けると、きしんだ音とともに乾いた空気が流れ出た。中は空っぽ、棚にはうっすらとほこりが積もっていた。
扉の裏にくっついていたのか、小さなお札のようなものがハラリと落ちた。

(了)