阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ふたつのおうち」一色類

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2020.06.09

第63回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ふたつのおうち」一色類

彼はふたつの家を持つ。
橋のこちら側と向こう側に、ひとつずつ。
ひとつひとつは、ぽつりぽつりの雨雫のようだと、橋を渡りながら彼は思う。
「こちら側」より「向こう側」の方が魅惑的だ、とも彼は思う。こちら側の家にいる妻より向こう側の家にいる愛人の方が良いから、というわけではない。
単に言葉の響きだ。
こちらと、向こう。
ふたつの家を橋のこちら側と向こう側に持つことになったのは偶然に過ぎない。橋をまたいでふたりの女を愛するだなんて、そんな手のこんだことを意図してできるものではない。むしろ自分はその偶然を愛しているのかもしれないと彼は思う。

こちら側の妻は、美しく、しとやかで、穏やかで、笑みを絶やさない。人間なのだから、腹の立つことのひとつやふたつはあるだろうに、そういう感情を表には一切出さない。
妻は彼のことをとても大切にする。近所の人や友人のこともいつもほめる。「お隣の奥さんがおいしいレシピを教えて下さったの。彼女は本当にお料理が上手よ」とか、「久しぶりに会った学生時代のお友だち、フラワーアレンジメントが趣味なんですって。素敵だわ」とか、エトセトラ。
悪口を聞かされるよりはもちろん心地良いけれど、一から十までがそんな調子だと何かが不自然だ。妻の日々の報告を聞きながら彼はつい首を傾げてしまう。首を傾げる彼に妻は気づかない。

向こう側の愛人は、専業主婦の妻とは対照的に、起業をしてバリバリと働いている。何の会社なのかはよくわからない。四十三歳の彼よりひと回り年下の愛人が勢いよく話すことにはついていけないときがある。そもそも、愛人の仕事に彼は興味がない。何をしていようが何もしてなかろうが、どうでもいいのだ。
個性的な顔立ちで、きれいなのかかわいいのか不細工なのかよくわからない。安定して美しい妻にはない不安定な魅力。頭はいいが、ひとたび感情が流れ出すとどこまでも流れて行き、流れ着くまでは手がつけられない。

真逆のタイプの女をわざわざ求めたわけではない。と言うよりも、このふたりは果たして真逆なのだろうか、と彼は考える。愛人の激しさは妻の中にもあるだろうし、妻のようにたおやかな部分を愛人は隠し持っているはずだ。妻といるときには愛人を、愛人といるときには妻を、より強く感じる。ふたりの女は実はひとりなのではないか。

彼はふたつの家で平等に食事をする。それが彼のルールだ。接待とか飲み会とか朝寝過ごしたとか、そういうことがない限り、彼はそれぞれの家で朝食と夕食を二回ずつ食べる。
妻は和食しか作らない。和食が好きだと言った覚えはないのだがと、食卓に並んだ料理を前に、ここでも彼はつい首を傾げてしまう。そしてやはり妻はそれに気づかない。
だが、ふたつの家を持ち、ふたつの家で食事をする身となった今、妻の和食は彼に幸いした。愛人が洋食しか作らないからだ。
今朝、こちら側では、白飯と豆腐の味噌汁と玉子焼きと鮭の塩焼きを食べた。納豆もあったが、それは残した。向こう側では、バタートーストとコーンスープとベーコンエッグを食べた。ヨーグルトは残した。
今夜、向こう側ではビーフシチューとサラダを食べ、こちら側では肉じゃがと鯛の刺身を食べた。
朝食はこちら側で先に妻と食べる。そして橋を渡り、向こう側で愛人と食べる。夕食はその逆だ。向こう側で愛人と食べてから橋を渡り、こちら側で妻と食べる。橋の向こう側の先に最寄り駅があるので、そういう順序になる。
それにしても、と彼は思わざるを得ない。和と洋、見事にバランスがとれている。もしかして、このふたり、ひっそりとメニューの打ち合わせをしているのではないか。
そんなはずはない。愛人は彼に妻がいることを知っているが、妻は愛人の存在を知らない。彼がこちら側で妻の作る料理を食べている限り、気づかれることはない。

そんな生活を何年も続けて、彼は着実に太りつつある。からだに蓄積されていく脂肪はふたつの家を持つ罪だと、彼はあきらめている。そして、橋のこちら側と向こう側を行き来する。
彼は思う。やがて、みっともなく太った自分を彼女たちは容赦なく捨てるだろう。心のどこかでそれを望んでいるような気がする。その日を待ちながら、今日も彼は橋を渡り、橋を戻る。
(了)