阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「橋の上の男」ササキカズト

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2020.06.09

第63回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「橋の上の男」ササキカズト

まただ。

「先輩、先週の金曜日、そこの橋の上で、何やら思い詰めた感じで立ってましたね」

月曜の朝、出社するなり、営業部で唯一の後輩である松崎にそう言われた。先週の初めにも事務の洋子ちゃんから、そして木曜には課長からも同じことを言われた。しかし俺には、まったく心当たりがなかった。自分の心が病んでいることに無自覚だったのだ。
都内の川沿いに立つ六階建ての古いビル。俺がいる営業部は二階で、窓からすぐそばにある橋が見える。垂直に立つコンクリートで護岸整備された、幅十メートルほどの川に架かる小さな橋だ。歩道の中央は、少し広くなって川にせり出し、春には川沿いの桜が楽しめるようになっている。その中央部分で川を見つめる俺の姿を、この窓から見たのだと皆が言うのだ。

「元気なく欄干に体をあずけて、じっと動かないんですもん。心配になりましたよ。大丈夫ですか」
「いや、それ俺じゃないって」
「え、そうなんですか? 俺、帰るとこだったんで、橋まで行ってみたんですよ。そしたらいなかったんで、入れ違いになったのかなって思ってたんですけど」

松崎はいいやつだ。先輩思いで、営業部のムードメーカー。入社三年目でありながら、営業成績も良く、新規をばんばん取って来る。俺はと言えば、決まった得意先を回るだけで精一杯。新規開拓の気力もなくなっている。
確かに俺は疲れていた。が、橋の上に立つ男は俺じゃないと思っていた。俺に似た誰かだったのだろう、と。

月曜の定例会議のあと、俺は自分の担当ルートを回った。夕方、いつものようにくたくたになり、地下鉄を降りて会社に向かった。
俺にそっくりな男が立つと皆が言う橋。俺はこの橋を毎日渡って帰社する。橋が見えると同時に会社のビルも見えるので、いつも渡りたくない気持ちになる。今日は契約打ち切りもあったので、余計に気が重い。
橋にさしかかったとき、俺に似た感じの男がいないか、周りを見回してみた。それらしい男は見当たらない。
橋の真ん中の歩道に立ってみた。会社のビルの二階、営業部の窓は思ったより近い。
俺は欄干に体を寄せ、川面を覗きこんでみた。陽の光が水面に反射し、キラキラ輝いている。絶えず変化する水の流れに、しばし時を忘れて見入ってしまった。
おっと、こんな姿を会社の誰かに見られたら、また心配されてしまう。そう思って立ち去ろうと、ふと横を見ると、男がいた。
俺と瓜二つの男が、すぐ横に立ち、俺と同じように川面を見つめている。スーツも髪型も顔も、何もかも俺と同じだ。
俺にそっくりな男は、俺にこう言った。

「川の流れはいいよな。もっと良く見てみようよ。こうやって……」

男は上半身を前にせり出し、川を覗き込むようにして頭を下げた。バランスを崩して足が浮いた。
あっ、と思った瞬間、水面が近づいて来た。
落ちているのは俺だった。

「大した事なさそうで良かったですよ」

病室の俺を見舞う松崎が、安堵した表情で言った。営業帰りの松崎が、橋から落ちる俺を見かけて、すぐに助けてくれたらしい。

「やっぱり覚えてないんですか、先週何回も橋の上に立っていたこと」
「……覚えてない。でも今回は、欄干のところで川を見たのは覚えてる。でも、何で落ちたのか覚えてないんだ……」

もう一人の俺の姿が見えたことを、俺は誰にも言わなかった。

「先輩、よほど疲れてたんですね。二~三日で退院出来るそうですけど、課長もしばらく休むように言ってたし、少しゆっくりして下さいね」

松崎は本当にいいやつだ。川に飛び込んで、俺を助けてくれた。人柄も営業成績も、俺はこいつに何一つ勝てない。

「じゃあ、また来ますね」

そう言って松崎は帰って行った。
俺は病室の窓から、ずっと外を眺めていた。六階にあるので見晴らしがいい。目の前に大きな川があり、向こうに工場や住宅街が広がっているのが見える。河川敷に茂った緑の草のあいだを、暮れゆく空を映した川が、ゆっくりと流れている。近くに大きな橋が架かっていて、ここからよく見える。
橋の歩道に一人の男が立っている。入院着姿の男だ。その男は欄干に手をかけて、さっきからずっと、川を見ている。
俺に似た男だ。……いや、俺なのだろうか?
あの橋に、確かめに行かなくては……。
(了)