阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「対岸の家」いとうりん

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2020.06.09

第63回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「対岸の家」いとうりん

施設の前には、大きな湖がありました。湖の向こう側は、私が生まれ育った町です。よく晴れた日は、高台の小学校や公園の展望台が、すごく近くに見えるのです。そして小学校の裏山を上った先にある私の家が、はっきりと見えるのです。
もう誰も住んでいません。両親はとうに亡くなり、弟は遠い街で所帯を持ち、帰るつもりはなさそうです。半年前まで、独りでどうにか暮らしていましたが、歩くことが困難になって施設にお世話になることにしました。こうして眺めていると、誰も住んでいない家が不憫です。たまに帰って空気の入れ替えをしてあげたいけれど、それも叶いません。
施設に来てから、ただの一人も面会に来ません。夫も子供もいないのです。弟は遠くにいるから滅多に会いに来ません。長いこと働いて、両親と家を守ってきました。気がつけば独りです。湖のほとりで、近くて遠い我が家を見ることだけが、私のライフワークになっているのです。

「そろそろ夕食の時間ですよ」

ヘルパーさんが迎えに来ました。湖が夕陽で赤く染まっています。向こう岸にもチラチラと灯りが灯り始めています。

「ねえ、湖の向こう側に行くには、車椅子でどのくらいの時間がかかるかしらね」
「まあ、車椅子で? そうですねえ、ぐるっと回って行くしかないから、車でも三十分以上かかりますよ。車椅子だったらきっと一日がかりだわ。ここからまっすぐ、橋でも架かっているなら別ですけどね」

ヘルパーさんは笑いながら車椅子を押してくれました。ああ、本当に橋が架かっていたら、どんなに近いでことでしょう。
それから私は、湖のほとりに行くたびに想像しました。ここからまっすぐ、向こう岸まで延びている橋を思い浮かべました。透明な硝子で出来ている橋はどうかしら。まるで湖の上を歩いているみたいで素敵。そんな夢みたいなことを考えていると、寂しさや不安が消えていくのです。

ある日のことでした。日暮れまで湖のほとりでぼんやりと、対岸の家を眺めていました。夕凪が心地よく、サワサワとガマの葉を揺らしていました。
ふと見ると、私の家の窓に、灯りが灯っているのです。誰もいないのに、なぜ灯りが? 他の家と見間違えたのかと思い、目を凝らしてもう一度見ました。やはり私の家です。まるで誰かが住んでいるように、普通に当たり前に、灯りが灯っているのです。
弟が帰って来たのかしら。いいえ、あの子は鍵を持っていないはず。連絡もなしに来たことなんて一度もない。まさか、泥棒? 盗られるものなんて何もないけれど、放火でもされたらたまらない。ああ帰りたい。見えるのに、こんなに近くに見えるのに。私は必至で湖に近づきました。橋があれば、せめて橋があればと願ったそのときです。私の足元に、透明の橋が現れました。私の足元からまっすぐ、向こう岸まで延びています。それは、私が想像していた橋そのものでした。硝子で出来た、きらきら光る橋でした。

私は立ち上がりました。自分でも驚くほど自然に立ち上がったのです。足は痛くありません。痛くないどころか、勝手に動き出すほど元気です。ああ、これは夢かしら。あれほど重かった身体が、何て軽やかなのでしょう。
私は橋を渡りました。ときどき走って、ときどき藍色の湖を覗き込んで、対岸の灯りに向かって歩き続けました。湖は穏やかです。時おり渦を巻いて水が跳ねます。魚が悠々と泳いでいます。
故郷の町に着くと、一気に坂道を駆け上りました。毎日のように上っていた坂です。とうに閉店したはずの駄菓子屋が、店先でラムネを売っていました。店のおばちゃんが「早く帰らないと叱られるよ」と、声をかけました。夢でしょうか。私はおかっぱ頭の、小さな子供になっていたのです。
家の前に母がいました。小さな弟をおんぶして「いつまで遊んでるの」と私を叱ります。夕餉のいい匂いがして、私のお腹がカエルみたいに鳴りました。
家に入る前に振り返って、湖の向こう岸を見ました。大きな施設がありました。窓にはたくさんの灯りがあります。湖のほとりに、空の車椅子がポツンと置かれています。硝子の橋は、跡形もなく消えていました。
私は振り返るのを止め、元気よく、大好きな我が家に入りました。

「ただいま。お腹ペコペコ」

(了)