阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「雷鳴」如月

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2020.07.09

第64回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「雷鳴」如月

「オーロラみたい。色が抜けたオーロラ……」
オーロラなど見たことはないが、降りそそぐ雨の波を眺めながら、佐和子は呟いた。
時折、稲妻が光る。雷鳴がおくれてくるから、まだ雷本体の雨雲は遠いのだろう。
だが、近づいてくる。近づいてくる雷に、いっそ打たれて消えてしまいたい…。
姑が死んだ。振り向くと、介護用のベッドの上で、姑は目を開けたまま、息絶えている。睨むようなその表情に耐えきれず、佐和子は目をそらせた。
神谷の家に嫁いで三十年。どれだけ耐え、どれだけ泣いたことだろう。続けたかった仕事も、嫁は家を守れと辞めさせられた。生まれた子が女の子だとわかると「次は必ず男の子を生みなさい。」と言われた。舅が病気になった時も、介護は嫁の仕事だと、すべておしつけられた。
不満を言い出したらきりがない。だからさっき…。佐和子は今になって、身体が震えているのを感じた。
「なんてことを……。私は……」
今まで佐和子は、近所でも評判の“よい嫁”だった。誰からも「あのきつい舅や姑さんによく仕えているわねえ。」と感心されるほどに。細い糸を切らないように、ずっとずっと我慢してきたのだ。切ってしまったら、二度と結びなおせない糸だとわかっていたから。なのになぜ、今になって…。
黒い空を稲光が走った。直後に雷鳴がとどろき、佐和子は耳をふさぐ。ふさいだ耳のすき間から救急車のサイレンの音が聞こえる。玄関を開け、夫が走りこんでくる音。続いて、近所に住む義理の妹がわめいている声。
よかった。電話連絡はちゃんとできたらしい。佐和子は窓辺に座りこみ、雨が強く打ちつける窓ガラスにもたれかかり、静かに目を閉じた。このままじっとしていればいい。
襖が勢いよく開けられ、夫の声がする。
「佐和子、母さんは?」
義妹の声が重なる。
「母さん、母さん、母さん…。やだ、しっかりして。母さん!」
救急隊員の声が遠くから聞こえる。
「患者さんはどちらですか? 上がりますよ」
力強く肩をつかまれ、揺すられ、佐和子は少しずつ目を開ける。
「おい、佐和子。大丈夫か?」
夫が心配そうに佐和子を見つめている。なんて優しそうな顔。そうよ、この顔にずっと救われてきたんだわ、と思いながら、佐和子はゆっくりと、夫の胸に身を任せた。
「残念ですが、もう亡くなっていますね」
「そんな……」
救急隊員が義妹に話しかけているところにかかりつけの田上医師が駆けつけてくれた。
一日おきに往診していること、患者は最近心臓が肥大し、いつ発作がおきてもおかしくない状態だったと説明してくれている。
佐和子はホッとした。ありがたい。もし田上医師が来てくれなかったら、きっと警察が入っただろう。救急隊は所定の連絡を入れ、帰って行った。今度はサイレンを鳴らさずに。
「義姉さん。あなた、母さんに何かしたんじゃないでしょうね。」
姑にとりすがって泣いていた義妹が、いきなり佐和子の方を向いて怒鳴った。
「お前、なんてことを言うんだ。」
佐和子の方を抱きしめていた夫が、怒鳴り返す。
「誰がずっと母さんの介護をしたと思っているんだ。全部、佐和子だぞ。お前など、近所に住んでいても、母さんのおむつひとつ、替えたことないじゃないか。」
義妹はぐっとおし黙り、下を向く。田上医師も、静かに義妹を諭した。
「そうですよ。佐和子さんは本当によくお母さんを看ていましたよ。これは心臓発作です。誰にもふせぎようはなかったんですよ。」
「……ごめんなさい」
義妹は唇を噛みしめる。佐和子は胸に手をおき、激しい心臓の鼓動を抑えこんだ。

人が亡くなった後は慌ただしい。連絡やら葬儀やら。弔問客はみな、佐和子をねぎらう。
「長いこと、大変だったわね。」
「本当に、よく面倒をみてくれたよ。」
しかし、佐和子は一人、自分の心の闇を見つめている。あの時、頼まれて姑に水を飲ませた。気を遣ったつもりなのに、姑は、
「冷たすぎるよ。全く何やらせてもダメね」
と言ったのだ。よくあること。なのになぜだろう。その瞬間糸が切れた。そして、言ってしまった。初めて言った。姑の耳元で…。
「死ね」
その直後だ。呆けた姑が目を剥き、胸をかきむしり、のたうち、やがて、息絶えた。
遠くで雷鳴がする。目を細めて見やる。
佐和子は、頬を伝う涙に、初めて自分が泣いていることに気づいた。

(了)