阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「彼の居場所」獏太郎

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2020.07.09

第64回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「彼の居場所」獏太郎

街外れの公園の片隅に、取り壊しが決まった建物がある。工事開始予定はとっくに過ぎているのに、予算がつかず放置されている。そんな建物の壁に、水彩画を描く若者がいる。誰も彼に気づいていない。気づかれない場所を選んで、彼は絵を描いている。
一ヶ月前まで、彼は美術大学の学生だった。卒業製作の作業に行き詰まり、やってはいけないことをやってしまった。世間であまり知名度のない作品を、盗作してしまったのだ。ばれないだろうと思っていたが、浅はかだった。彼は退学という処分を下し、自分を否定した大学を心底憎んだ。俺が描いたんだから、俺の作品だ。何が悪い!
大学を追われ、彼は自分の居場所を求めて彷徨いながら、自分だけのキャンバスを見つけた。ここだよ。人通りも少なく、じっくりと絵に向き合える。こんな素敵な場所は他にはない。彼は黙々とキャンバスに向かい始めた。
「出来た」
ついに彼は、女性の胸像を完成させた。彼女は彼が理想とする、架空の人物だ。やわらかな笑みを浮かべている。
翌日から、彼は彼女に向かって話しかけ始めた。当然、返事はない。それでも彼は話しかけることをやめなかった。ただ自分の言葉を黙って聞いてくれる誰かが欲しかったのだ。大学は彼を見下した。でも彼女は違う。彼は彼女にどんどん引き込まれていった。
彼女に話しかけ始めて半月後、彼は見た。彼女の口元が動いたことを。胸が高まった。
「話せるのかい!」
彼女は更に口を動かした。聞き取れない音が聞こえる。きっと遠慮しているんだ。
「何でも言って!」
「ありがとう」
彼女がニッコリと笑った。
壁の彼女に一方的に話すだけだったが、彼女との会話を楽しめるようになって、彼の荒んだ心は、どんどん満たされていった。大学は自分を否定したが、彼女は違う。彼女は自分を否定しない。全て受け止めてくれる。それが何よりも嬉しかった。
次第に彼は、彼女と距離を近づけたいと思い始めた。出来ることなら、包まれてみたい。その気持が、口をついて出た。
「君にふれてみたい。どうしたらいい?」
「出来ないことはないわ。でも」
ふと彼女が視線を外した。
「でも?」
「全てを捨てる覚悟がいるわ」
壁の中から彼女の両手が、ゆっくりと出てきた。
「私はあなたを壁の中に引き込むことが出来る。でもそうすれば、あなたは一生壁から出られなくなるかも知れない」
彼は迷うことなく一歩前に出た。
「いいよ、君と一緒にいられるなら」
彼は彼女の両手の間に立った。彼女の両腕が彼を包み込んだ。ゆっくりと、彼が壁の中へと入っていった。すると壁の絵が変わった。彼が彼女と並んだ絵に変わったのだ。
壁の中には真っ白な世界が広がっていた。そこに一糸まとわぬ姿で彼女が立っている。
「本当に僕は来たんだね」
彼は彼女を抱きしめた。そのまま押し倒して、自分のものにしたいという欲望はない。ただ抱きしめてほしかった。自分という存在を受け止めてほしいだけなのだ。彼女は彼を優しく抱きしめた。彼は母に抱かれる子供のように、彼女の腕の中で眠った。
どのくらい時間が経ったのか、全くわからない。わかる必要はない。もう元の世界に戻るつもりはないのだから。彼女が心配そうな顔で声をかけてきた。
「本当にここでいいの?」
「いいよ、こんな幸せはないもの」
「一度だけなら戻るチャンスはあるわよ」
彼は彼女を見上げた。
「僕を否定するだけの世界に戻るつもりはないよ。ここが僕の居たい場所さ」
彼女の表情が曇った。
彼が壁の中に入って二週間後、夕立が降った。絵を描いた上には庇があったので、少しの雨なら影響はなかった。夕立は急に激しさを増し、横殴りになった。彼女にも彼にも、雨が降りかかる。
「これが最後よ。この雨で流れる前にあなたを戻すことは出来るわ」
「全てを受け止めてくれる君さえいれば、それでいい」
雨は容赦なく、壁に降り注いだ。みるみるうちに、絵の具が流れてゆく。彼は幸せな表情を浮かべ、彼女は浮かない表情をしていた。それらを雨は、どんどん流していった。
翌日、雨はすっかり止んで、晴れやかな朝を迎えた。公園の片隅にあったふたりの絵は、跡形もなく消えていた。

(了)