阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「折からの雨に」坂倉剛

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2020.07.09

第64回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「折からの雨に」坂倉剛

折からの雨に降りこめられて、駅の出入口で立ち往生した。
傘を持たずに家を出たわけじゃない。だが、どれほど用意周到でも人はポカをするものだ。朝は晴れていたので通勤電車の中に傘を置き忘れてしまった。
夏場特有の強い雨脚だった。スマホで天気予報を見てみる。少なくともあと三十分はこの状態がつづきそうだ。逆に言うと三十分もすれば雨がやむだろう。
そのまましばらくスマホをいじって時間を潰すことにした。――が、悪いことは重なるものでバッテリーが切れてしまった。
こんなとき、となりに誰かがいてくれたら雑談でもしてヒマが潰せるのになあと思った。映画とかだと、若い男女がたまたま同じ軒下で雨やどりすることになって、最初はぎこちないんだけど、だんだんいい雰囲気になって――。
「雨、やみませんね」と女が言う。
「夕立だから」と俺は言う。「待ってればそのうちやむよ」
俺がこの手の妄想をするときのヒロインはいつも決まっていた。同僚OLの虹香だ。
「折りたたみの傘でもカバンに入れとけばよかったな」と虹香は言う。
「俺なんか傘を持って家を出たのに、電車ん中に忘れてきちゃって……」
虹香がくすくす笑った。俺も照れかくしに笑う。
――妄想はそこで中断された。
「いやあ急に降ってきましたなあ」
野太い声が間近に聞こえた。いつのまにか地味なスーツを着た中年の男がすぐそばに立っていた。
「こりゃなかなかやみそうもないですなあ」
「……そうですね」しかたなく俺は話を合わせた。
中年オヤジは見るからに冴えない風体だった。俺より十五センチぐらい背が低いので、頭のてっぺんがハゲているのがよく見えた。
「このあたりに住んでるんですか?」とオヤジがたずねた。
「ええ、まあ。あなたもですか?」
「いや、私はとなり町に住んでるんですがね。今日は知り合いの家に行く用事があってこの駅で降りたんですけど、このざまですよ」
よくしゃべる男だった。初対面――それもたまたま雨やどり先がいっしょになっただけなのに。おそらく誰に対してもこんな調子なのだろう。
二重の意味で雨が早くやんでほしいと願った。帰れないことだけでもイライラするのに、こんなうざいオヤジの話し相手をしなきゃならない状況にへきえきした。
「仕事帰りですか?」とオヤジが訊いてきた。
「はい」
「こう不景気がつづいちゃ、ろくすっぽ飲みにも行けませんやね」
オヤジは杯を干すしぐさをしてみせた。居酒屋通いがいちばんの楽しみなのだろう。
俺は酒が苦手なので答えに詰まった。そもそも話を聞く気がないから、てきとうに生返事をしておいた。
雨は降りつづいていた。それと呼応するかのようにオヤジのムダ話は止まらなかった。俺が退屈しているのを察してか、話題が酒からパチンコに変わった。ギャンブルはいっさいやらないので同じことだった。
二十分ほど経って、やっと雨が小降りになった。
「僕、そろそろ行きます」
ホッとした俺は、そそくさとオヤジに別れを――永遠の別れを――告げた。
「完全にやんでから行けばよろしいのに」
「僕の家、そんなに遠くないんで」
そのまま逃げるように駆け出した。小雨の中、十分ほど走った。
それから一カ月ばかり過ぎた、ある日のこと。ショッピングモールへ一人で買い物に行くと、虹香にばったり出会った。
「あら、めずらしい所で会いましたね」
「あ、ああ、そうだね」俺はどぎまぎしながら言った。
「ここ、よく来るんですかあ?」
「たまにね」
話を合わせながらも気になることがあった。俺たち二人が鉢合わせしたのは紳士服売り場の前だったからだ。虹香に彼氏がいるという噂は聞いたことがなかった。しかし、だからといって彼女に男がいないという保証はない。
「おおい虹香」不意に野太い声がした。
ジャケットの林からのっそりと顔を出したのは一カ月前にいっしょに雨やどりをした中年オヤジだった。
「あ、お父さん。この人は私と同じ会社で働いている……」
「おお、君はいつぞやの。聞き上手な人だったんで、よくおぼえてますよ」

(了)