阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「止める時も、健やかに」伊島糸雨

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2020.07.09

第64回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「止める時も、健やかに」伊島糸雨

ビィーッ、という音が携帯端末からして、私は空を見上げた。午前中はかんかん照りだった空に、もくもくと黒い入道雲が重く垂れこめ始めていた。
「シェルター、いこ」
アユの言葉にうんと頷いて、小走りに来た道を戻る。夕立で遅くなります、とお母さんにメッセージを送って、タイミング悪いな、とぼんやり考えた。明日から夏休みなのに。
雨よけの半地下シェルターにはもう同じ学校の子たちが集まって、ひそひそと密談を繰り広げていた。私たちはその様子を尻目に、隅っこの空白に身を沈めた。
間もなくして、勢いのついた雨が世界を覆い尽くした。地上が見える長方形の窓からは、墨を垂らしたような水が小川をつくって流れていくのが見えた。こぽこぽと音を立てて落ちていき、汚染水処理施設で透明になるのだ。
「今日は早く帰れると思ったのになぁ」
アユはぼやいて、その桜色の唇を尖らせる。私は「ね」と相槌をうって、女の子たちのささやきが一つの音楽になっていくのに耳を澄ませた。
ずっと前の世代の人があちこちを汚染し尽くした結果、雨は恵みの性質を失って、耐性のない私たち子供は、雨がふるたびに特殊素材でできたシェルターに身を隠さないといけなくなった。歴史の授業で、お馬鹿ですよねぇ、と言う社会の先生は、なんだか少し怒っているように見えて、私はそれを頬杖をつきながら眺めていた。
成長して大人になる過程で、私たちは徐々に汚染物質への耐性を獲得していく。だからそれまでは、大人たちも必死になって、私たちを包み込んで守ろうとする。たくさんの難しい病気にならないように、たくさんの悲しいことを起こさないように、って、過保護すぎるくらいに、今の可能な限りで、子供を慈しむ。うっとおしい、と思うこともあるけれど、仕方がないのだと、わかってもいるのだった。
黒い雨に対して、一番注意しないといけないのは夕立だった。急にものすごい勢いで降り始めるから、夏になるとみんな空を見る頻度が上がる。雨が降りそうになると端末の警報が教えてくれるけれど、内心の不安が警戒することを勧めてくる。
「大人はいいよね。こんな時でも好き勝手に外出歩けてさ」
「まぁ、私たちと違うから……」
私が苦笑すると、アユは不満げに、
「おんなじ人間なのになぁ。昔はきっと、大人も子供も平等だったと思うんだよね」
どうして世界をこんなにしちゃったんだろ、と言って、私はその能天気な考え方に少し笑った。
「大人も子供もみんな平等に、世界を滅ぼしちゃおうと思ったんだよ」
きっとそうだ、と私は思っていた。なにかものすごく嫌なことが全人類に起きて、どうしようもなくなって、それで一つになったみんなの意志が、世界をボロボロにしちゃったのだと思った。お父さんもお母さんも先生も違うっていうけれど、本当のところはわからない。誰も彼も、その時代を生きた人は残っていないのだから。
「うえっ、嫌なこと考えるね。暗い、暗いなぁ。ただでさえ雨で気が滅入ってるのにぃ」
もぉ、と言ってアユが私を小突く。私が黙ってやり返すと、くすくすと笑った。
私はいつも、なんだか憂鬱な気持ちで、悲観的に物事を考えがち。だからアユの気楽で前向きな言葉は、新鮮で、心地よかった。
「雨、止むかな」
私がぽつりとこぼすと、アユは、
「止むよ」
一呼吸挟んで、
「いつか止む」
確信に満ちた声で、言った。
「雨が黒いのも?」
「それはちょっとわかんないな」
今度は頬を掻いて自信がなさそうだったけれど、「そうだなぁ」と口にしてから、
「でもきっと、いつかはね」
そう、力強く言った。
アユの言うように、いつか雨が止んで、夕立の中も自由に走り回れたらいいな、と想像した。傘を忘れて、びしょ濡れになりながら走る私とアユ、そして他の子たち。帰ってきた私を、「まったくもう」と言って叱るお母さん。そういう世界も、悪くはないはず。
ぽこん、と音がして、お母さんから返信がきた。気をつけてね、と心配をする文字列に、ありがとう、と返事をしておく。
それからは、アユと喋りながら時間を潰した。雨が止んで警報が解除されたころには、空は黄昏に沈んで、燃える街並みが黒い水たまりに映り込んでいた。

(了)