阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「枯れ尾花」八尋彼方

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2020.08.07

第65回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「枯れ尾花」八尋彼方

 足音を忍ばせ、私は廊下を歩いた。
 筋肉が削げ落ち、枯れ枝のようになった細足は以前のように持ち上がらない。喜寿を迎えたころから、私は床板を擦るようにして歩くようになっていたから、音を立てずに歩くことなど造作もないことだった。それでも、私は注意深く気配を殺して進む。
 居間へと繋がる扉が開いていた。その隙間から中を覗き込むと、孫の隆司がソファで携帯ゲームに没頭していた。こちらに気づく気配はまるでない。
 ――お祖父さんが外を出歩かないよう、ちゃんと見ておいてよね。
 娘の幸恵が、家を出る際に隆司に強く言いつけていたのを思い出す。つい先日、私の深夜徘徊が原因で、警察に注意をされたばかりだから、彼女の言葉は最もだろう。老いぼれの私を邪険にしている、ということではなく、私の身の安全を考えてくれての発言だと分かるから、私はその場で少し瞑目し、心の中で幸恵に詫びた。もしかしたら、私は今宵もまた、警察に保護されてしまうかもしれない。そうしたら、私は幸恵に叱責されるだろう。私の蛮行を止められなかった隆司も同様だ。
 二人には申し訳ないと思いながらも、私は私を止めることはできなかった。もはや、私にはこれ以外、生きる目的がないのだ。老いぼれの最後の我儘だと、大目に見て欲しい。
 隆司に気づかれることなく、私は外に出ることができた。目的地に向かってのろのろと歩く。冷たい風が痩躯を撫でていった。どこかの家の夕餉の臭いが鼻孔をくすぐる。カレーだろうか。妻の早紀子の得意料理だったのを思い出す。甘口の、あの優しい味が口の中に広がった。
 やがて、寂れた公園が目の前に広がった。想い出の公園。私にとって、全ての始まりとなった公園だ。私以外に人影はない。だからだろうか。この公園が、私を待っていてくれたかのように思えた。
 ブランコに座り、体重を預ける。連結部が錆びてしまっているようで、耳障りな金属音が鳴り響いた。前後に揺られながら、私は隣に視線を向ける。人の乗っていないブランコが、かすかに前後に揺れていた。風の仕業だということは分かっていても、胸が締め付けられる思いがした。過去の想い出が目まぐるしく頭に浮かび、目の前の光景と重なり、そして消えていく。私は暫くの間、隣で揺れるブランコから、視線を外すことができなかった。
 肌寒さを感じ、私は立ち上がった。そろそろ戻らなければならない。今日も私の望みは叶わなかった。小さなため息をこぼし、自宅へと歩みを進める。公園を出る際、名残惜しさからか、私はブランコのほうを振り返った。そのとき、ふと、視線の端で何かが動いた。人影だ。私ははっとし、思わず心の中に溜め込んでいた名前を呟いてしまう。
「早紀子」
 しかし、目を凝らしてみると、私が人だと思ったのは、公園の隅に生えた、背の高い名前も知らない草だった。
 幽霊の正体見たり枯れ尾花、という奴だ。そうだ、分かっている。分かっているのだ。幽霊なんて、いやしないということは。
 空しさと寂しさが胸の中を渦巻いた。私は力なく頭を垂れながら、自宅へと戻った。まだ、幸恵は戻ってきていなかった。内心ほっとしながら、私は家を出た時と同じように、音に気を付けながら玄関の扉を開き、気配を消して廊下を歩く。
「じいさん」
 居間の横を通るとき、隆司の声がした。私は驚き、短く息を呑む。居間を覗くと、先ほどと同じ姿勢のまま携帯ゲーム機を操作する隆司の姿があった。彼は私のほうに視線を向けないまま、優しい声音で言う。
「ばあさんには会えたかい」
 その言葉に、私は衝撃を受けた。隆司は、私が外に出ていたことに気づいてた。そして、その目的にも。
「今日は、ダメだった」
「そうか。それは残念だ。でもまあ、次はきっと会えるさ」
 彼の気遣いに、私は眼がしらが熱くなるのを感じた。
 そうだ、次は。次こそは、きっと会える。
 私はただ、生涯の伴侶として人生を共にしてきた、かけがえのない早紀子に、もう一度会いたいだけなのだ。
 どんな姿でも構わない。足元が透けていようが、死装束で身体を包んでいようが、もう一度、早紀子に会って、そして言いたいのだ。
 最期までこんな私を愛してくれてありがとう、と。
(了)